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『六十年の回顧』 三〇 個人雑誌の発行 六十年の回顧 三〇 個人雑誌の発行 喜田貞吉 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)曩《さき》に [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから底本凡例より] [#ここから底本凡例より] なお今日からすれば使用をつつしむべき差別用語が用いられているが、本著作集においては喜田貞吉の思想、史観を明らかにするうえからあえて改めず、原文のままとした。ただし限定された地名については若干の配慮をほどこした。 [#底本凡例ここまで] 三〇 個人雑誌の発行 明治四十一年二月に講師として、始めて京都帝大に関係を持ってから、今年でまさに満二十五年となった。今さらながら歳月の流れの早いのに驚かされる。もっとも文部省在勤当時の三年間は、毎年ただ約一学期ずつ東京から出かけて、講義のお手伝をする程度に過ぎなかったが、文部編修の休職以来はゆっくり京都に滞在して、好きな見学旅行も勝手に出来る。ことに休職満期の大正二年からは、もっぱら京大にのみ勤務するようになる。その時代が約九年。大正九年七月教授に任ぜられてからが四年余り。さらに大正十三年本官を辞して東北帝大の講師となり、次の新学期からもとの京大講師懸け持ちとなってからでも、今年でもはや九年目である。 南北朝正閏問題の結果として、休職となった後の自分の生活は、実に気楽なるものであった。持って生れたわがままな性質のうえに、この問題のためにあまりに強く打ちのめされて、去勢されてしまったとでもいうものか、何によらず面倒なことがことにいやになった。ただ講義さえしていればよいという責任の少い講師の地位が、自分のためには最も択ばれたものだった。わずかばかりの時間を教壇に立つ以外は全く自由で、実地について各地の古墳墓や、その他の遺物・遺蹟を、盛んに見てまわるようになったのもこれからだ。未熟の研究を臆面もなく起稿して、盛んに学界に迷惑をかけたのもまたこのころからであった。そのうちにわが民族研究に興味を覚えて、ついに大正八年からは、個人雑誌『民族と歴史』を発行することになった。実は自分は同人諸氏とともに、明治三十二年以来雑誌『歴史地理』を経営している。それで身体が閑になった大正元年以来は、ことに盛んに同誌の誌面を塞ぎ、それでも間に合わずしてしばしば他の諸雑誌にも御厄介になったものだった。しかしそれでは同人雑誌なるはずの『歴史地理』が、喜田個人の機関雑誌ででもあるかのごとき世評もあって、熱心に編輯その他のことに尽力せらるる同人諸氏に対して、まことに申訳がない。ことに近ごろ民族研究に熱中して、自然に記事が多くその方面に片よるようになっては、『歴史地理』の本領にとっても不適当であるということから、ついに個人雑誌として、『民族と歴史』を発行することにしたのである。かくて爾後自分の民族・土俗方面の研究は、たいていこの雑誌で発表することとなし、特に歴史地理学的のことのみを『歴史地理』の方に収めることに方針をきめた。そのうちに民族的研究はさらに特殊民の研究に移り、ついには社会組織の史的研究という方面にまで火の手が拡がって行って、この雑誌も後には『社会史研究』と改題し、大正十二年の大震災の影響を受けて、『歴史地理』と合併するまで約五年、通編五十八号まで継続したのであった。その間同誌上に発表した未熟の論文・雑録の数は、大小通じて無慮二百余篇の多きに達している。その他の雑誌や新聞に発表したものを合せたなら、あるいは三百篇近くもあるであろう。これには自分ながらいささか驚いた。実際自分は臆面もなく、粗製濫造品を無暗と発表したものだった。しかしこれについてはいささか自分に主張がある。当時自分は仕合せにも物質上にはそう困っていなかったがために、原稿料稼ぎの起稿は努めてこれを避ける方針のもとに、お義理その他やむを得ぬ場合のほかは、多分の報酬をくれるような雑誌にはなるべく筆を執らぬことにしていた。もちろん単行本としての著書をも絶対に避けて、無暗と学術雑誌上に所見を発表したものだった。大正八年七月、内田銀蔵博士が長逝せられて、その追憶を『民族と歴史』十月号に掲載した中に、自分はこんなことを書いておいた。 [#ここから1字下げ] 君は余が無遠慮にも、未熟の学説を常に雑誌上に公にするのをもって、余のために取らずとなし、「喜田さん、雑誌上の発表もあながち悪いとは申しませんが、なるべく推敲を重ねて、権威ある著書としてお出しになってはいかがです」と。これに対して余は常に、君の好意を謝しながらも、なおこれに従うの意志がなかった。「私に研究的態度を継続する元気の存する間は、私の学説は日進月歩で、逐次に訂正増補を加えて行かねばならぬ。なまじ著書の形をもって発表して、ためにみずから欺き、後進を誤るのは私の忍びないところです。それにはどうしても、漸次改訂を加うるの便宜多き、雑誌上の発表がよいと思います」と。時としてはこんな皮肉なことをもいった。「私がみずから完全だと信ずるほどの著書を発行しようとすれば、例えば百年河清を待つがごときもので、あたかも貴下の『日本近世史』のようになってしまいます」と。余はまたこんな憎まれ口をもきいた。「私は決してみずから完全とは思わぬまても、その当時においてベストと信ずるところを発表するのをもって、学者の任務と信じています。発表をおっくうがるような大家先生は論外だが、発表に臆病な人は、実力以上に世間から買いかぶられているところの箔が落ちるのを恐がるのでしょう」と。実際余といえども、かくまで著書としての発表を重大視した訳ではない。また未熟の学説の発表をもって、そうまで価値あるものとも思っていない。事実は次の研究に忙しくて、前の研究を纏める暇がないのであるが、例の悪い癖から、つい温厚なる君に対して、こんな嫌がらせをもいったのであった。それというのも、余が在学中に、故黒川・小中村両先生の教壇における述懐を拝聴して、痛切に感じたことがあったからである。黒川先生は美術史を講ぜらるるさいに、余らの学生に向って、古物鑑定の眼識を説明せられながら、「自分の研究はそれぞれ筆にとどめてあるから、自分がなくなった後にも諸君に見て貰うことが出来るが、ただこの眼識のみはいかにしてもこれを伝えることが出来ぬ。惜しいものだ」と述べられた。実際先生の研究は、その眼識以外のものはほとんど全くその全集によって伝わり、今日なお余ら後進の者がこれを窺い知ることが出来るのである。しかして及ばないまでも、その上に一歩を進めて見ようと試みることが出来るのである。これに反して小中村先生の述懐は、実にお気の毒千万な、同情に堪えないものであった。「自分は今や余命いくばくもない。これまで公務の忙しさに取り紛れて、いっこう研究を纏めておらぬ。せめては大宝令の分だけをでも世に遺したいと思って、曩《さき》に大学教授の職をも辞し、今では僅かに講師として少時間を諸君の前に立つだけで、自宅に書生を頼んで、日夜これに従事しておるのである」と。しかも先生のこの著手は時すでに晩《おそ》く、先生の深遠なる研究は、直接その講義を拝聴したもの以外には、多くこれを伝えることが出来ないで終られたのである。先生の高齢をもってしてなおかつしかりであった。しかも余らは必ずしも先生の齢を予期することを得ないのである。ここにおいてか余は、なるべく速かにその研究を筆にして、漸次これを訂正増補するの方針を執った。 [#1字下げここまで] というのであった。実際自分は研究の発表に急であったがために、駄作世を誤るもの少からぬことを自認して、研究の進歩とともに順次改訂増補の便多き雑誌上の発表を選んだのであった。しかして臆面もなく駄作を濫発した結果として、ともかくもいくらか自分の研究を纏めることが出来たと自信しているのである。しかしまだそのほかに、蒐集した史料、つつき散らした研究の、そのままに「長持の下積み」となり、自分自身にもこれを利用し得ずに蠧魚になったり、黴が生えたりしつつあるもの、あるいは未定稿のままに筐底に蔵せられて、自分でも忘れてしまい、そのまま腐朽しつつあるものは、さらにその幾倍あるかも知れないのである。これはぜひなんとかして、生命あるうちに整理しておきたいと思うている。 自分が『民族と歴史』を発行するに至った動機は、実に右にいうごとく民族研究に興味を覚えて来たためであったが、しかしそれは単に自分の研究発表機関たらしめるというばかりでなく、同時にこれをもって各地の同好者と連絡を保ち、研究資料の提供を得て、これを蒐集するの機関たらしめたいということにもあった。また特に当時のいわゆる特殊部落の起原・沿革を調査して、社会の啓蒙運動の資料を供給せんとするためでもあった。この点において自分の『民族と歴史』は相当の成績を挙げ得たと信じている。なおこのことについては章を改めて別に言う。『民族と歴史』改め『社会史研究』を廃刊し、『歴史地理』に合併してから後は、しばらく同誌にたて籠って、これを自分の研究発表機関に供してみたが、やはり前に経験したと同じような故障の発生を免れ得ぬ。その頻繁なる発表も自然遠慮がちになって来る。ことに大正十三年東北大学の講師として、年中の大半を東北地方に送るようになってからは、主として奥羽・北海道方面の諸研究、特にその民族的方面のことに没頭して、さしあたり別に資料の蒐集機関が必要になった。調査し研究した事柄も、発表機関がなくてはいつかは「長持の下積み」になってしまう。そこで昭和三年九月から、年寄の冷水の譏りを覚悟しつつ、新たに『東北文化研究』という個人雑誌を始めてみた。しかし寄る年波は争い難く、とても『民族と歴史』時代のように敏活には物が運ばぬ。ことに東北文化と範囲を限ったがためにか、『民族と歴史』のようには売行きがうまく行かぬ。発行者の方で算盤が取れぬのみでなく、編輯の方も後れがちになって、月一回の予定が実行されなくなる。そのうちに発行引受書肆の破綻があり、また昭和五年の半年に渉る自分の大患のために、一時休刊のやむなきこととなり、次の発行引受者もまた当時の不景気が生む蹉跌から、ついに発刊不可能となってしまった。継続わずかに十号、第十一号目はすでに昭和五年末に印刷を終り、仮製本に附したまま、今に印刷所に保存してあるが、発行者がそれを引き取らず、また読者名薄をも引き渡さぬままに消えてしまったので、自分ではなんとも致し方がなく、ために継続の方法も立たずして今日に及んでいる。これはまことに読者諸氏に対しても申訳なく、自分にとっても遺憾限りなき次第である。 『東北文化研究』が中止になって、発表機関を失った後は、新しい研究もついこれを学界に紹介するの方法を得ずして、そのままになっているものが多い。近ごろの新発見としては、青森県三戸郡是川村における石器時代の遺蹟から、図らずも多数の植物性遺物が、地主の泉山氏によって発掘せられたことである。従来石器時代の遺物としては、石器・土器・骨角器等、主として容易に腐朽しない材料の物品のみに限られていたのであったが、ここに始めて多数の木製品、繊維製品などが発見せられて、従来ほとんど知るを得なかった当時の文化の他の一面が、始めて窺い知らるるに至ったのである。ことにその新発見遺物の中には、思いのほかに進歩した漆器工芸品が多く、かつ往々その実年代の、案外若いものなることを想像せしむべき資料もあって、その発見は確かにわが考古学上の研究に、一新時期を劃すべきものといってよいのである。少くも自分の民族研究の立場からこれを観れば、これを遺したものは確かにわが歴史上に著しい蝦夷の族であり、しかも彼らはなおわが日本民族の奥羽拓殖当時において、青森県のごとき僻遠の奥地にあっては、依然石器時代の状態に住していたことが知られて、ただにわが考古学研究のうえにのみならず、歴史研究のうえにもまた一の新しい見方を与えてくれたものである。ここにおいて自分は杉山寿栄男君の協力を得て、これを図録に調製して学界に紹介し、兼ねてこれを造した石器時代人の研究、ならびにその文化の状態を論述して、図録の解説とともにこれを別冊となし、研究者に新しい資料を供給するとともに、これに関する管見を学界に問おうと試みた。かくてその図録は『日本石器時代植物性遺物図録』の名のもとに、昨年一月中にようやく完成を見るに至ったが、その後また続々新発見の資料があり、これを増補し研究を新たにすべき事実の発生が続々相踵ぐという状態であるとともに、一方には種々の個人的障礙もあって、今もってこれが完成を見るに至らず、学界の期待に背くことの大なるは慚愧の至りである。これというも自分に発表機関を持たぬがためで、正直なところ自分のごとき意志薄弱なものにあっては、なんらかそこに期日を限って督促さるるある物の存在せぬ限り、つい他の雑務に追われて延び延びになってしまうのである。しかしこれもほぼ準備が整ったがために、今現に執筆中のこの『六十年の回顧』の完成次第、遠からず発表し得べき順序になっていることをここに告白しておく。 ※ 底本の編注は省略しました。 底本:『喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌』平凡社 1982(昭和57)年11月25日発行 初出:『還暦記念 六十年の回顧』 1933(昭和8)年4月発行 入力:しだひろし 校正:未登録・校正待ち(2008年6月11日現在) xxxx年xx月xx日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http //www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 2010.3.6:更新 ※ カウンタを設置。編集モードを変更。 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント 【メモ】なるほど。ページ編集が「そのままテキストモード」のため、カウンターもコメントも無効になってる。(しだ) 【メモ】編集モードの途中変更はできないとすれば、再度新規にページをつくってアップする……か。(しだ)
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六十年の回顧 三五 旅行 喜田貞吉 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)昭六、七、一四—二九《(ママ)》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから二段組、横罫線あり] [#ここから底本凡例より] なお今日からすれば使用をつつしむべき差別用語が用いられているが、本著作集においては喜田貞吉の思想、史観を明らかにするうえからあえて改めず、原文のままとした。ただし限定された地名については若干の配慮をほどこした。 [#底本凡例ここまで] 三五 旅行 自分の好きなものは旅行、嫌いなものは酒。酒はいくら我慢しても飲めないから問題はないが、旅行は久しくしないでいるとどうも気が滅入って来る。健康の上にも善くないようだ。自分の旅行癖は、幼年時代に祖母に伴われて、お寺参りや神社詣でに連れて行かれたことから植え付けられたものらしい。しかし明治十三年、自分が十歳の時に祖母が死んで以来は、どこへも連れて行ってくれる人がなく、というよりもむしろ父兄と一緒に労働を強制せられて、「遊びに行く」というようなことはほとんどなかった。中学校へ入ってからは、みずから好んで仲間はずれになった形であって、ために団体旅行にはあまり気が進まなかったが、それでも時には二、三人の友人と行をともにして、「遠足」に出かけたこともないではなかった。三高や帝大在学時代にも、団体的の修学旅行には、たいていなんとか故障を設けて失敬したものだった。ことに三高時代の鉄砲担いでの発火演習旅行は大禁物で、在学五ヵ年半の間に、ただ一度宇治・木津方面へ行ったことがあるばかりだったと記憶する。つまり自分のわがままな性格と、自分の身体が、ことに脚が太く短くて、健脚の仲間と歩をともにすることの苦痛とから、自然自分をそうさせたのだった。しかし単独旅行はよく試みた。ことに夏冬の休暇は旅行の書き入れ時季で、いつもきまってどこかへ出かける。その習慣がついて、家庭を持ってから以来今年で三十余年間、自宅で新年を迎えたということは指を折って数えるくらい。しかし一口に旅行とは言っても、三高在学時代には、ただ景色のよい所を見てまわるとか、いわゆる名所・古蹟を訪ねてみるとかいう月並的のもので、もちろん研究的の意味はなかった。しかるに帝大在学のころからは、そこになんらかの史的意義がなければ行ってみる気にならなくなった。優美ということから全く縁離れがして、いっこうそれに興味を感ぜぬ乾燥無味な人間になってしまったのだ。青少年時代にはよく寄席や芝居見物に出かけたものだったが、それも帝大入学の明治二十六年以来、四十年間東京に住居しながら、まだ一度も歌舞伎座や帝国劇場へ脚を入れるの光栄を有しないということによっても、そのいかに無趣味な人間になったかが知られよう。したがってついでながらならばとにかく、どんな景色のよい所でも、そのためにわざわざ出かけるというようなことはほとんどなくなった。青森県下へはすでに二十三回も足を入れておりながら、誰もが行くかの十和田湖の景色を、まだ一度も探ってみたことがないのである。 しかしいかに旅行が好きであるからと言っても、それには相当暇と費用とのかかる事業であるがために、そうたびたびは出かける訳にも行かぬ。三高時代で記憶に残っているものは、たしか明治二十五年から六年へかけての冬休みに、伊勢参宮のついでに志摩の鳥羽へ廻り、今の真珠王御木本幸吉氏の親類という学友故御酒本三之助君に伴われて、当時まだやっと同氏が養殖真珠を始められたころのうどん屋へ行って、たくさんの真珠を見せられてその夥しいのに驚いたことや、これも同じ明治二十六年の春休みに、須磨・明石・高砂の松から、尾上の鐘、別府の手枕松、石の宝殿などいう、いわゆる播州名所を巡覧し、岡山・玉島を経て、汽船で讃岐へ渡り、多度津・丸亀・高松などを見物して、阿波へ帰ったことくらい。ただしこの播州巡りでは、今の京城大学法文学部の速見滉博士が、まだ岡山中学の生徒として、ほか一名の学友とともに、これも播州名所見物に来ておられたのと、偶然明石城で一緒になって、終日行を共にしたことで、さて一同加古川駅からいざ汽車に乗ろうという時になって、両君岡山までの汽車賃が足らぬという一大珍事を発見し、自分がお立てかえしたという景物があったことから、今にありありと当時の状況を記憶している。帝大在学中にも、むろん一年三度の休暇以外には、あまり遠あるきは出来なかった。今記憶に残っているのは、明治二十七年の夏休みに、帰省の途次讃岐を一周して、当時金刀比羅宮の禰宜を勤めておられた国学の老大家故松岡調翁をお尋ねして、同翁多年蒐集の夥しい考古品や、古文書などを、志度の多和文庫に就いて見せて貰ったこと、また同年の十月ころに、両親の案内をして、日光見物から仙台・松島まで脚をのばしたことくらいに過ぎない。そのほかのことは、当時の日記も遺っておらず、記憶も朦朧としていて今たずぬるに由がない。明治二十九年帝大卒業後のことは、断続しながら日記もあり、ことに明治三十九年ころからは、一日も欠かさぬ「随録日誌」が整っていて、ほぼそのあとをたどることが出来る。しかし卒業後の約五年間は、何分にも例の学士肩書の切売に忙しく、また文部省就職後も、前記のごとく公務に追われていたので、史蹟調査などいう暢気なことはあまり出来なかった。自分が実際暇にあかして各地を見てまわることの出来るようになったのは、明治四十四年二月文部編修が休職となり、京大講師専任となった後のことであった。しかしたとい講師とは言っても、一年を通じて教務を担当していた間は、そう好きに出あるいてばかりもいられなかったが、大正十三年教授を辞して、恩給生活に入って以来は、京大と東北大学とに一学期ずつを担当して、しかも京大では一学期分の講義を一ヵ月に約め、東北大学では一学期分を一年に引延ばしてやってよいという、きわめて都合のよい優待を受け、また斎藤報恩会や文部省などから、研究費の補助までが与えられて、家庭のことは全然妻に一任し、一年中の大半はいつでも好きに旅行が出来るという、きわめて仕合せな身分となった。しかしあまりに旅行に時を費し過ぎた結果、いたずらに材料の蓄積のみに走って、それを整理することが出来ず、順々に黴がはえつつあるのは遺憾である。今座右の日誌から明治二十五年末以来の旅行年譜を編成して、自分の過去がどんな方面に動いて行ったかを回想するの料とする。中にはわずかに半日の出張もあれば、足跡数府県に渉り、一ヵ月近くに及んだものもあり、その日誌に記されたもの実に七百余回、その中から左に取出したもの五百六十余回、ただし明治三十五年以前のものは、記録不完全で脱漏が多いが、今これをいかんともすることが出来ぬ。なおこれらの旅行については、その紀行の一部をすでに新聞雑誌上に発表したのもあるが、その以外のものについても、いつかは重《おも》なるものを整理して、遺しておきたいと思っている。 [#ここから二段組、横罫線あり] 旅行年譜 明二五、一二—二六、一伊勢参宮、鳥羽 明二六、三—四播州名所巡覧、岡山、玉島、丸亀、高松 明二六、七(三高卒業、帝大国史科入学) 明二七、七—八讃岐一周—白峯、善通寺、その他 明二七、一〇日光、仙台、松島 明二七、一一箱根(帝大文科遠足) 明二九、七(帝大国史科卒業) 明二九、八、一—一〇阿波祖谷山踏査(堀田璋左右君ら同行) 明三〇、一一、二—三日光、湯元(真宗中学遠足) 明三一、二、九—一三鎌倉(帝大国史科学生修学旅行参加) 明三一、三、三〇—四、一二京都、田辺、木津、奈良、平城京址、法隆寺、吉野、高野山、大阪 明三一、八、七—二一阿波各地(丈六寺その他) 明三一、一〇、一六—一八箱根(成田中学校遠足) 明三一、一二、二九—三二、一、一銚子、佐原、香取(藤田明君同行) 明三二、二、一三武蔵国分寺、府中 明三二、三、三〇—四、一〇阿波各地 明三二、六、二〇—二一下総吉岡大慈恩寺、滑川横穴、小御門 明三二、九武蔵吉見百穴 明三二、一二、三一—三三、一、九笠置、和歌山、和歌浦、阿波各地 明三三、三足利(帝大同窓丙申会遠足) 明三三、四、二九—三〇下総守谷、土浦、筑波登山 明三三、七川越喜多院その他(藤田、堀田両君同行) 明三三、八、一—九信濃、越後行—浅間登山、上田、長野、高田、直江津、五智国分(藤田君同行) 明三三、八、一〇—二六東海道、畿内旅行—静岡、久能山、御穂、京都、山崎、桜井駅址、大阪、堺、仁徳陵その他、河内応神陵その他、太子叡福寺、大和畝傍、桜井、初瀬その他(藤田君同行) 明三三、一二京都(南禅寺畔忠仁公墓というもの調査、その他) 明三四、四(文部省図書検定嘱託、翌月文部省図書審査官任官) 明三四、一一、九—一〇妙義登山(文部省図書課員遠足) 明三四、一二、二八—三五、一、二河内六万寺(小楠公墳墓調査)その他 明三五、三、一—二八福岡、佐賀、大分三県出張—姫路城、福山城、下関、福岡、佐賀、多久聖廟、唐津、呼子、名護屋、波多、伊万里、有田、長崎、太宰府、観世音寺、水城、元寇遺蹟、周船寺、雷山神籠石、高祖、深江、長糸、一貴山、今宿、久留米、高良山神籠石、石人山、石戸山その他、熊本、水前寺、名島、箱崎、宇佐、日出、別府、鉄輪、大分、耶馬渓その他 明三五、八富士登山 明三六、五、七大阪(第六回内国勧業博覧会)、大山陵その他 明三七、一一、三—一二、五鳥取、島根、広島三県出張—京都、姫路、城崎、玄武洞、(但馬海岸徒歩)、香住、余部、浜坂、鳥取、東郷、淀江、米子、境、美保、隠岐、松江、今市、大社、大森、浜田、津和野、三田尻、広島、厳島、福山、京都 明三八、五、二三—六、一六日露戦役戦地見学—広島、字品、(丹後丸にて大連へ)大連、南山、金州、旅順、(加賀丸にて宇品へ)—帰途法隆寺、京都 明三八、一〇、一四—一五箱根(文部省図書課員遠足) 明三八、一二、三〇—三九、一、七奈良博物館、平城京址、法降寺その他(北畠男爵訪問)、阿波、宇治、木幡、山科、京都 明三九、五、一二—六、一三高知、香川、愛媛三県出張—徳島、脇町、辻、杉、土佐国分寺、高知、赤岡、奈半利、浮津、室戸、佐川、須崎、中村、宿毛、宇和島、三浦、大洲、松山、道後、西条、新居浜、四坂島、別子銅山、観音寺、本山、坂出、丸亀、高松、多度津、善通寺、撫養、徳島 明三九、一〇、五—七筑波登山、その他 明三九、一〇振天府拝観 明三九、一〇、二〇—二二成田、佐原(伊能家訪問)、その他 明四〇、七、二八—八、二三福岡県各地—直方、小倉、久留米、女山神籠石、太宰府、観世音寺その他、雷山、一貴山その他、兵庫、阿波 明四〇、一二、二六—四一、一、六前橋、磯部 明四一、二、二五(京大文科大学講師嘱託) 明四一、五、一〇—一一大和巡り(畝傍その他)(谷井済一君同行) 明四一、五、一七奈良(東大寺大仏殿発掘品視察) 明四一、五、一八京都将軍塚(古墳調査) 明四一、五、三一—六、二大和巡り、奈良、西の京各地(以上京大生指導)、飛鳥檜隈地方各地(小田省吾君東道) 明四一、六、八—一〇大阪、天王寺、阿部野、兵庫 明四一、六、一三大津、滋賀里(大津京址踏査) 明四一、七、二〇—三一長府、下関、阿波 明四一、八、二—三大和額田、八木その他(条里調査) 明四一、八、一四—一七鎌倉(歴史地理夏期講演会) 明四一、一〇、八鶴見(お穴様横穴視察) 明四二、四、二四—二六奈良(北浦義十郎氏訪問)、元明陵その他、法隆寺、安倍文珠(一部分京大文科学友会同行) 明四二、五、一—二京都史蹟視察—神泉苑、大谷、東福寺、九条家月輪墓、東寺、お土居、壬生(壬生狂言) 明四二、五、八長岡京址踏査—唐橋、西寺、粟生、向日町 明四二、五、一五—一六大和巡り—東大寺、不退寺、大山守墓、郡山、帯解、三島その他 明四二、五、二三天部視察(竹中庄右衛門翁訪問) 明四二、五、二五大津、膳所、茶臼山その他 明四二、五、二九横浜(開港史料展覧会) 明四二、七、一芝公園丸山古墳調査 明四二、七、三〇—八、五興津、小田原(歴史地理夏期講演会)、箱根 明四二、八、六—一四大分、別府 明四二、八、一五—二四高松、徳島(夏期講習)、阿波国分寺その他 明四二、一一、五—一一名古屋、京都、阿波 明四二、一二、二八—四三、一、五周防石城山、三田尻、下関、小倉、中津、豊前御所谷、武蔵温泉、太宰府、肥前坊住山(神籠石調査) 明四三、一、二二—二八伊勢参宮—皇学館、徴古館 明四三、二、一三浦和 明四三、五、一—三御所、離宮拝観 明四三、五、三—六阿波、飯尾 明四三、五、八大津 明四三、五、二五山科、大津 明四三、七、二〇—二八下関 明四三、七、二九—三一豊津、小倉、久留米その他 明四三、八、一—九長府(歴史地理夏期講演会) 明四三、八、一一—一九讃岐行—観音寺、高松、屋島、讃岐国府、城山、阿波 明四三、一一、二〇佐原 明四三、一二、二九—四四、一、五箱根 明四四、二、二七(文部編修休職) 明四四、四、一五—一七大阪城、天王寺その他、阿波、河内樟葉 明四四、四、二三京都東山、山科 明四四、五、三—四大阪、神戸 明四四、五、一七—一八宇治、田辺、神奈備山 明四四、七、二五—二八三浦三崎、逗子 明四四、八、二七—三〇三浦三崎、葉山、横須賀 明四四、九、一〇秩父、寄居 明四四、一〇、一四長岡京址視察—乙訓寺、光明寺、鏡山古墳 明四四、一〇、二〇大和—正倉院拝観、桜井、忍坂、多武峯、飛鳥(桜井以下梅原、岩井両君同行) 明四四、一一、五上賀茂、小町寺、鞍馬その他 明四四、一一、九—一二阿波 明四四、一一、一三御所、離宮拝観 明四四、一一、一九太秦、天塚、広隆寺、その他 明四四、一一、二二—二三恭仁京址視察—椿井、上狛、泉橋寺、高麗寺、海住山寺、国分寺その他 明四四、一一、二四—二五南葛城地方踏査—今木双墓、阿吽寺、巨勢寺、樋野、稲宿、室、その他(梅原君同行) 明四四、一二、九—一〇南河内および大和踏査—軽墓、久米皇子墓、野中寺、誉田、長持山、道明寺、安福寺、国分、高井田、巨勢寺、檜前寺、鬼の厠俎、五条野丸山、軽寺、石川、豊浦、忍海、笛吹、山口千塚等(梅原君同行) 明四四、一二、一九伏見稲荷山経塚発掘品調査 明四四、一二、二八—四五、一、一五大分、福岡、両県史蹟視察—近江山津照神社、醒井砦址、宇佐神宮、鉄輪、別府、庄原古墳、上片面古墳、国東各地、鹿垣、伝乗寺、富貴寺、田原、灰土山古墳、雷横穴、入津原古墳、太宰府※[#「學」の「子」にかえて「鳥」、p205下-8]換、大城山、都督府址、大善寺古墳、石人山石棺(突起の破片発見)、ジードン山、石戸山、奈良山、権現塚、鬼塚、日ノ岡、月ノ岡、椿子村重定古墳、二川村楠田石人山、熊本、本妙寺 明四五、一、二五—二九南河内各地—徳楽山石棺、応神陵陪塚その他、道明寺、野中寺、上ノ太子、山田麻呂の塚、通法寺、杜本神社、国分神社(鏡)、高井田横穴(梅原・岩井両君同行) 明四五、三、七—九鎌倉(各地横穴視察、覚園寺秀文師案内) 明四五、三、二三武蔵府中、立川、国分寺(考古学会遠足) 明四五、三、三〇—四、一鎌倉 明四五、五、二六—三一鎌倉 明四五、六、二三岩槻、真福寺貝塚 明四五、六、二六鎌倉 明四五、六、二七—三〇伊豆史蹟視察—韮山、平井養徳寺、江間横穴、長岡温泉、三島寺院址、珍場横穴、長岡石棺、蛭ヶ島、百八岩屋、三島神社、国分寺址その他 明四五、七、二二—二三鎌倉 (つづく) 2010.3.31:更新 ※ カウンタを設置、編集モードを変更。 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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【電子本を読んで、被災地を支援しよう! 一日一偽善!】 【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】 ※ DL-MARKET 運営事務局より「セット商品の場合は少々手続きに時間を要するため、現状ではお断りしております」との連絡をいただきました(2011.5.3)。残念。 ※ とはいえ、バックナンバーのセット販売そのものは捨てがたい思いつきですので、*99 出版独自のチャリティー企画として続行いたします。 ※ みなさまのPRがこのチャリティー支援の大きな力となります。もし可能でございましたら、Twitter やHP、ブログ等でご紹介いただけますと幸いです。 T-Time マガジン 週刊ミルクティー* 被災地支援チャリティー*99 出版企画 【全バックナンバー140冊を一括セットで販売】 創刊号から第三巻 第三九号まで140冊分を一括セットで販売します。 セット販売価格:10,800円 ※ 通常価格1冊200円のところ、セット価格1冊あたり100円。 ※ この企画は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格10,800円のうち DL-MARKET 手数料分(10800円×7%+60円=816円)を差し引いた9984円全額を日本赤十字社に寄付いたします。 ※ 当面、7月末日までの期間限定商品といたします。ご了承ください。 ※「DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画」は「おおよそ5月〜6月頃を終了予定」としています。チャリティー向けのセット販売は、その期間限定の商品となりますのでご了承ください。 imageプラグインエラー 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 【週刊ミルクティー*全バックナンバー140冊セット】 (http //www.dlmarket.jp/product_info.php/products_id/135400) ※ クリックすると購入サイトへジャンプします。 価格10,800円 *99 出版 ※ オリジナル版に加えて、ミルクティー*現代表記版を同時収録。 ※ JIS X 0213・ttz 形式。 ※ DRM などというやぼったいものは使っておりません。 ※ この作品は青空文庫にて入力中および公開中です。転載・印刷・翻訳は自由です。 (c) Copyright this work is public domain. 【収録内容】 第三巻 第三九号 キュリー夫人/はるかな道/キュリー夫人の命の焔 宮本百合子 第三巻 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉 第三巻 第三七号 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦 第三巻 第三六号 地震の話(二)今村明恒 第三巻 第三五号 地震の話(一)今村明恒 第三巻 第三四号 【欠】 第三巻 第三三号 【欠】 第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳) 第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳) 第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉 第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒 第三巻 第二八号 面とペルソナ/文楽座の人形芝居/能面の様式/人物埴輪の眼 和辻哲郎 第三巻 第二七号 黒川能・観点の置き所/村で見た黒川能/能舞台の解説/春日若宮御祭 折口信夫 第三巻 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直 第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治 第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治 第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治 第三巻 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直 第三巻 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直 第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直 第三巻 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直 第三巻 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直 第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水 第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳) 第三巻 第一五号 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解 喜田貞吉 第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉 第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉 第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦 第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/神話と地球物理学/ウジの効用 寺田寅彦 第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫 第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南 第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南 第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南 第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝 第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉 第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎 第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清 第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清 第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清 第二巻 第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子 第二巻 第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット 第二巻 第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット 第二巻 第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット 第二巻 第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット 第二巻 第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット 第二巻 第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉 第二巻 第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉 第二巻 第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉 第二巻 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉 第二巻 第四三号 清河八郎(六)大川周明 第二巻 第四二号 清河八郎(五)大川周明 第二巻 第四一号 清河八郎(四)大川周明 第二巻 第四〇号 清河八郎(三)大川周明 第二巻 第三九号 清河八郎(二)大川周明 第二巻 第三八号 清河八郎(一)大川周明 第二巻 第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 第二巻 第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 第二巻 第三五号 右大臣実朝(一)太宰治 第二巻 第三四号 人形の話/偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫 第二巻 第三三号 雛 芥川龍之介/雛がたり 泉鏡花/ひなまつりの話 折口信夫 第二巻 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松 第二巻 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松 第二巻 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松 第二巻 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松 第二巻 第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫 第二巻 第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 第二巻 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 第二巻 第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 第二巻 第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 第二巻 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 第二巻 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 河野常吉 第二巻 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 第二巻 第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 第二巻 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 第二巻 第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 第二巻 第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 第二巻 第一六号 【欠】 第二巻 第一五号 【欠】 第二巻 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 第二巻 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 第二巻 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 第二巻 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 第二巻 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治 第二巻 第九号 セロ弾きのゴーシュ/なめとこ山の熊 宮沢賢治 第二巻 第八号 震災日誌/震災後記 喜田貞吉 第二巻 第七号 新羅の花郎について 池内 宏 第二巻 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏 第二巻 第五号 空襲警報/水の女/支流 第二巻 第四号 毒と迷信/若水の話/麻薬・自殺・宗教 第二巻 第三号 美し姫と怪獣/長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳) 第二巻 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 第二巻 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 第一巻 第五二号 「印刷文化」について 徳永 直/書籍の風俗 恩地孝四郎 第一巻 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直 第一巻 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直 第一巻 第四九号 平将門 幸田露伴 第一巻 第四八号 幣束から旗さし物へ/ゴロツキの話 折口信夫 第一巻 第四七号 「侍」字訓義考/多賀祢考 安藤正次 第一巻 第四六号 愛国歌小観/愛国百人一首に関連して/愛国百人一首評釈 斎藤茂吉 第一巻 第四五号 幕末志士の歌 森繁夫 第一巻 第四四号 接吻 斎藤茂吉/女体 芥川龍之介(他) 第一巻 第四三号 本朝変態葬礼史/死体と民俗 中山太郎 第一巻 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵 第一巻 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵 第一巻 第四〇号 歌の話(三)・花の話 折口信夫 第一巻 第三九号 歌の話(二)折口信夫 第一巻 第三八号 歌の話(一)折口信夫 第一巻 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳) 第一巻 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳) 第一巻 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳) 第一巻 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵 第一巻 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直 第一巻 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直 第一巻 第三一号 道教について(三)幸田露伴 第一巻 第三〇号 道教について(二)幸田露伴 第一巻 第二九号 道教について(一)幸田露伴 第一巻 第二八号 墨子(三)幸田露伴 第一巻 第二七号 墨子(二)幸田露伴 第一巻 第二六号 墨子(一)幸田露伴 第一巻 第二五号 博物館(五)浜田青陵 第一巻 第二四号 博物館(四)浜田青陵 第一巻 第二三号 博物館(三)浜田青陵 第一巻 第二二号 博物館(二)浜田青陵 第一巻 第二一号 博物館(一)浜田青陵 第一巻 第二〇号 「鐵」の字の古体と古代の文化/石上神宮の神宝七枝刀/八坂瓊之曲玉考 喜田貞吉 第一巻 第一九号 本邦における一種の古代文明 ——銅鐸に関する管見——/銅鐸民族研究の一断片 喜田貞吉 第一巻 第一八号 日本石器時代の終末期について/「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」——日本石器時代終末期—— 喜田貞吉 第一巻 第一七号 遺物・遺蹟と歴史研究/日本における史前時代の歴史研究について/奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について 喜田貞吉 第一巻 第一六号 考古学と古代史 喜田貞吉 第一巻 第一五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉 第一巻 第一四号 東人考 喜田貞吉 第一巻 第一三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉 第一巻 第一二号 日高見国の研究 喜田貞吉 第一巻 第一一号 東北民族研究序論/猪名部と佐伯部/吉野の国巣と国樔部 喜田貞吉 第一巻 第一〇号 日本太古の民族について/日本民族概論/土蜘蛛種族論につきて 喜田貞吉 第一巻 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎 第一巻 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎 第一巻 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎/シペ物語/カナメの跡 工藤梅次郎 第一巻 第六号 石器時代総論要領/コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎/マナイタのばけた話 小熊秀雄(他) 第一巻 第五号 昔物語と歌物語/古代・中世の「作り物語」/平安朝文学の弾力/散逸物語三つ 島津久基 第一巻 第四号 竹取物語の再検討(二) 橘 純一/絵合『源氏物語』紫式部・與謝野晶子(訳) 第一巻 第三号 竹取物語の再検討(一) 橘 純一 第一巻 第二号 竹取物語小論 島津久基 創刊号 竹取物語 和田萬吉 2011.5.3:公開 八面玲瓏。 2011.5.4:更新 目くそ鼻くそ。しだひろし/PoorBook G3'99 転載・印刷・翻訳は自由です。 カウンタ: - インフォームド・コンセント。 -- しだ (2011-05-03 11 08 18) 現在、DL-MARKET へチャリティー登録申請中です。受理後に購入サイトのページ ID が変更になりますので、購入まで、いましばらくお待ちください。 -- しだ (2011-05-03 11 10 50) チャリティーではセット商品不可とのこと、気がはやって解説を読みのがしたのかもしれません……残念。やむをえないですね。しきりなおして、独自企画としてスタートします。 -- しだ (2011-05-04 09 14 18) 名前 コメント
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六十年の回顧 三一 民族研究熱の高潮といわゆる特殊部落の解放運動 喜田貞吉 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)郷中者《ごうちゅうもん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから底本凡例より] [#ここから底本凡例より] なお今日からすれば使用をつつしむべき差別用語が用いられているが、本著作集においては喜田貞吉の思想、史観を明らかにするうえからあえて改めず、原文のままとした。ただし限定された地名については若干の配慮をほどこした。 [#底本凡例ここまで] 三一 民族研究熱の高潮といわゆる特殊部落の解放運動 自分がもっぱら京大に教鞭を執っていた時代、すなわち文部省休職後の大正元年から、十三年に東北大学の講師を兼ねて、もっぱら東北地方の研究に没頭するまでの約十三年間は、自分にとってはむしろ平々凡々たる時代であった。閑にまかせて各地を旅行し、主として遺物・遺蹟を調査する。この方面から資料を求めて、日本民族の成立、および発展の蹟を明かにしてみたいとの慾望が盛んになった。もともと自分は歴史地理学の研究を標榜して、籍を大学院にも置いてみたのであったが、卒業後は例の肩書切売に没頭し、文部省に就職してからの自分の日常は、教科書の検定や編纂などに追われて、その必要上一般的に国史の研究を試みた以外には、別になんという専門的の研究に手を染めることがほとんど出来なかった。強いて言わばその間において、いくらか専門を標榜する歴史地理の方面から、大名領知の調査に手をつけかけてみたくらいのことで、それも単に少しばかりの材料を集めたという程度のものであった。さればその期間の業績としては、それは全く偶発の事項として、一時法隆寺や平城京の研究に夢中になり、はからずも他日の学位論文となったところの、かの雑多の原稿を作り上げたことを数え得るに過ぎない。したがって明治三十九年以来の東大における講義のごときも、今から思えば至ってお粗末なもので、ありふれた国史地理上の諸問題を扱っただけだった。しかるに四十一年に京大の講師として、古代史を受持つようになってからは、もっぱらその方の研究に油が乗って来た。しかしてわが古代の真相を明かにするには、単に貧弱なる文献的史料をいくらいじくりまわしたからとて、とうてい十分に知ることが出来ない。これはどうしても古墳墓その他の遺物・遺蹟等、古代人が実地に遺した実物的史料のうえに、考古学的研究を重ねてこれが基礎を築かねばならぬことに気がついた。これは全く法隆寺問題の研究や、平城京址の調査に没頭したお蔭である。かくてそれ以来は暇にあかして、まず主として近畿・中国・四国・九州等、わが古代文化の関係の最も多く、かつ京都にいる身にとって、比較的行くに便利な西部地方の実地を踏査し、その九州に足を容れた数だけでも、大正十三年までに前後十五回の多きに及び、昨昭和七年までには、実に二十回に達しているのである。かくて九州地方特有の神籠石と呼ばるる各地の巨石建造物や、他に類の少い銅剣・銅鉾等の遺物や、墳墓の様子の近畿地方のそれとすこぶる趣を異にするものの多いことなどを調査しているうちに、単にその考古学的研究のみに満足することが出来ず、さらに進んでこれらの遺物・遺蹟をとどめたはずの、いわゆる倭人の民族的研究をなすの必要あるを認むるに至った。かくて大正四年ころには、一時は倭人研究時代と言ってよいほどにも、この研究に熱中しかけたものだったが、湧いて来た民族研究の興味はやがて次から次へと波及する。これはまことに自分にとって悪い癖で、これがために何かとつつき散らすだけで、いっこう纏りが付かぬのにはわれながら愛想をつかす場合が多いが、しかし一方にはまたこの悪い癖があるがために、研究があまり一方に片寄り過ぎるという弊を幾分予防し得るのではないかとも思っている。そはともかくもとして、前につつきかけた研究がまだ纏まらぬうちに、さらに火の手は次のものにと移る。倭人を調べかけてみると、やがて石器時代に弥生式土器を遺した民族のうえに及ぶ。帰化民族のことが調べたくなる。蝦夷のことも調べてみたくなるという風で、民族的研究の興味がますます高まって来る。はては何を見ても民族的方面から考えてみたくなる。日本の古代史はあるいは日本民族の成立史といってよいほどにまでも、民族的色彩が濃厚なものだというところに気がついて来る。しかしそうなって来ると研究の関係するところがきわめて広くなり、材料を各地の土俗・方言等にまで求めねばならぬこととなる。大正八年から個人雑誌『民族と歴史』を発行するに至ったのも、実はこの民族研究の高潮した時代の産物だった。 日本民族に関する研究熱が高潮して来ると、どうしてもその出発点を蝦夷すなわちアイヌ族の上に置かねばならぬ。彼らはおそらく我が島国に始めて足跡を印した民族で、石器時代においては広く全国に渉りてその遺蹟をとどめ、歴史時代になってもなお奥羽地方に活躍をつづけつつ、その遺※[#「((山/(追−しんにゅう)+辛)/子」、第4水準2-5-90]は現代にまでも保存されているのである。したがってその沿革を知るには比較的便宜が多く、これが徹底的研究は、ただにわが古代民族研究上最も重要なる地位を占むるものであるのみならず、さらにこれを他の民族の上に及ぼしては、つとにその蹟を没して、調査の便宜少き他の異民族同化融合の事情をも、これによって類推し得るの好参考資料を提供するものである。ここにおいてか自分の研究はさらに西から東に移った。彼らが最後まで遺留した東北地方の実地調査によって、遺物・遺蹟・土俗・方言等、各般の方面に渉りこれが研究を重ねねばならぬ。しかるに自分の奥羽・北海道方面の視察は、大正四年にただ一度試みたことがあるのみで、東北地方は自分にとってほとんど未拓の野である。否、自分ばかりでなく、従来学界からも比較的閑却されているのである。これはぜひ自分の手でもって、徹底的にやってみたいという慾望が起って来た。かくて大正十一年の十一月に、久し振りに奥羽に足を入れて、山形・宮城両県下を十日ばかり見てあるき、翌十二年三月には秋田県まで足をのばし、さらにその七月には岩手・青森から北海道に渡って、大正四年渡道のさいに懇意になったアイヌの青年達にも、九年目に会見の機を得たことであった。しかしなにぶんにも京都根拠の自分にとっては、途中に多くの日数と費用とを要して、思うままに調査の手を伸ばすことの出来ぬ事情があり、ひたすらそれを遺憾としていたさいにおいて、なんらの幸運か大正十三年に至って、突然東北大学の講師を兼務することになり、ことに斎藤報恩会から爾後数年間研究資金の補助をも与えられて、奥羽・北海道に渉って、比較的容易に調査旅行を試みることの出来る身分となった。かくて今に至るまで、主としてこの方面の民族的研究に従事しているのである。 自分が始めて民族研究に手を染めたのは、明治三十九年末に中田薫君の「アイヌ語神名考」を読んで興味を感じ、翌四十年一月の『史学雑誌』上でこれが批評を試みた時からのことで、その後、さらに同年三月の『歴史地理』第九巻第三号を、「土蜘蛛号」として発行したことであった。しかし自分がこの方面のことに興味を有することになったのは、実は当時すでに多少とも社会の問題となり、これが改善が叫ばれていたいわゆる特殊部落の何ものなるかを、歴史的に調べてみたいという慾望からであった。今日ではもはや世人も特殊部落などいう語をほとんど口にするものはなくなったが、当時にあってはまだ世間一般の人々が、なんらその理由を解することなしに、ただ多年の因習から、はなはだしく差別的の目をもってこれを見、これを忌避するの風習が各地に遺されていたのであった。そこで自分は歴史家として、まずもってこれが起原・沿革を徹底的に研究してみたいと考えた。従来世間普通の人々の考うるところでは、彼らは、普通民とは種族が違うものだという。あるいは朝鮮人の子孫だなどという。しかし自分はどうもそうとは考え得なかった。自分の郷里にもその部落があって、少年時代から親しくそれらの人々と接触交際する機会が多かったがためか、直感的にどうもそうとは考え得なかったのである。ことに自分は、中学時代に士族の子弟や城下の生徒らから、何かにつけて百姓だの郷中者《ごうちゅうもん》だのという侮辱的言辞をもって、しばしば侮辱されたがために、いわゆる同病相憐むということからか、いっそうこの種の人々に対して、親しみと同情とを感ずることになったようだった。かくてしばしばその部落に出入し、その人々が世間の差別待遇のために、精神的に、物質的に、いかに多くの苦痛を嘗めさせられているかを親しく目賭する時に、ますます世間の無理解に対して、遺憾の念を禁ずるを得なくなった。ここにおいて自分は、もし自分の研究をもって、いくらかでも社会の啓蒙の資に供することを得るならば、それは自分の学問がそれだけ有意義になるわけだと考えた。かくてだんだんと史料をあさり、研究を重ねるに従って、その区別は全然種族の問題ではなく、もっぱら境遇の問題であることがハッキリとわかってきた。明治四十年のころ、帝国教育会の何かの会合の席上で、柳田国男君とこの点について、意見の交換を行ったことがあったと記憶する。またこのころ郷里の部落の人々を会して、自覚反省を促したこともあった。これが自分のこの問題に関して、ともかくも宣伝らしいものを試みた最初であった。その後明治四十一年に京大講師となって以来、しばしば京都に滞在するの機会を育し、自然研究上の便宜も多くなったので、さらに進んで広く内部における史料を調査し、その沿革に関する全貌を明かにせんと試みるようになった。かくて翌四十二年五月、京都の天部部落に古老竹中庄右衛門翁を訪問し、同部落の織田・豊臣時代の文書などを見せて貰い、また維新前の実話を聴取し、同部落の夜学校で有志の人々のために、いわゆる特殊部落の本体について、一場の講話を試みたこともあった。これが自分のこの問題について、ともかくも史的研究らしいものを発表した最初である。 いわゆる特殊部落の研究は、同時に日本民族の研究と並行せねばならぬ。彼是相俟ってますます民族研究熱は高潮して来る。ただに机上の研究のみでなく、これを実地に応用して、世間の啓蒙運動に資せんとするの熱情も熾んになって来る。大正八年一月個人雑誌『民族と歴史』を発行するに至ったのも、一はこの方面における研究を発表するとともに、兼ねて資料蒐集機関に宛てんとするためであった。当時同誌の綱領として発表したところに、「本誌は我が日本民族の由来沿革を調査し、其の社会組織上の諸現象を明にするを以て目的とす」、「本誌は特に過去に於ける賤民の成立変遷の蹟を詳にし、今も尚時に疎外せらるゝの傾向を有する、同情すべき我が同胞解放の資料を供せんとす」とあって、実際はいわゆる特殊部落の研究と、これが解放に関する宣伝とが、当時における重なる対象であったのだ。時あたかも内務省において、細民部落改善協議会が開かれ、翌二月にはまた築地本願寺において、大江天也老師の帝国公道会主催で、同情融和会なるものが開かれて、部落解放運動の機運がようやく向いて来た。すなわち同誌五月号を三百数十頁に増大して、「特殊部落研究号」に宛て、さきの内務省における講演筆記以下十四篇の研究を掲げ、別に大江師の寄稿以下十九篇の報告をも収めて、警鐘を乱打したことであった。この催しはかなり世間の注意を惹いて、毀誉褒貶の批評が少からずやって来た。部落側の人々からは、一面感謝をもって迎えられもしたが、一面にはこれをもって、売名のために、あるいは雑誌を売らんがために、われわれを利用するものだなどと、とんだ穿った批評をも受けた。中にはその特殊部落という名称について、抗議を持ち込んで来た人もあった。滑稽なのになると、喜田は部落出身でもあろう。しからざればあの細君が部落の娘であろう。もしそうででもないならば、頼まれもせぬのにあんなに熱心に研究したり、宣伝したりするはずはないなどと、自己の利己的根性をもって自分の態度を忖度するものもあった。中には全く自分をもって、部落出身の博士だと思い込んでいる人も少くなかった。その後水平社が組識せられて盛んに活動を始め、社会一部の脅威を感ぜしめたさいのごとき、これは裏面にあって喜田が煽動したものだとか、喜田が余計なことを宣伝するから、彼らがつけ上ってあんな乱暴を働き出したものだなどと、飛んでもない認識不足の非難をあびせかけたものもないではなかった。 水平社の勢いが熾烈になって、大いに世間の覚醒を促したがために、融和改善ということが盛んに叫ばれ出した。各地に融和を目的とする団体が組織された。国家は資金を支出して、改善費の補助をこれに与え、初めは中央社会事業協会の地方改善部で、後には社会局の構内に中央融和事業協会というものが出来て、もっぱら融和改善の施設に当るようになった。かくて大正十四、五年ころまでは、自分もその依頼を受けて、自己の研究による歴史的見地から、あるいはパンフレットに執筆し、あるいは各地に講話旅行を試みて、いわゆる部落民の自覚と、一般社会の啓蒙とに努力したことも多かった。しかし自分はどこまでも一学究として、自己の歴史的研究の結果を宣伝するの範囲にとどめ、なるべく実際運動に関係することを避けた。中央融和事業協会の組織せられたさいに、その理事としての推薦勧誘を辞退したのもこれがためであった。しかもその口と筆とによる宣伝も、いわゆる仏の顔も三度で、同じようなことをいつまでも繰り返すでもなく、また社会の進歩もあまりそれを必要としなくなったうえに、大正十三年以来は多く仙台に滞在して、主として奥羽・北海道方面の研究に没頭することになったので、いつとはなしに自然にこれから遠ざかるようになった。 ※ 底本の編注は省略しました。 底本:『喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌』平凡社 1982(昭和57)年11月25日発行 初出:『還暦記念 六十年の回顧』 1933(昭和8)年4月発行 入力:しだひろし 校正:未登録・校正待ち(2008年6月11日現在) xxxx年xx月xx日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http //www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 2010.3.31:更新 ※ カウンタを設置、編集モードを変更。 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 名前 コメント
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以上列叙するところ、長きはその期間一ヵ月に近く、その及ぶ範囲数府県に渉ったのもあるが、短きはわずかに半日、単に一史蹟を踏査し、一史料を探ったというに過ぎないものも多い。したがってこれを旅行などと事々しく書き立てることは、いかにも仰山に過ぎるの嫌いがないとは言えぬ。しかしながら、自分の調査したところは簡単ながらもたいてい日誌に記入してあるので、それを探り出すための便宜のうえから、単に自分用の索引の意味で、すべてこれを収めることにしたのである。その※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]卒の編纂として、叙述統一を欠くものの多いことを遺憾とする。 もちろん右列記する中には、公用をもって出張した場合もあり、他の団体の案内、学生の見学の指導等のための旅行もあり、講習講演のために聘せられて出かけた場合もあり、あるいは研究の整理、原稿の起草などのために、温泉その他の客舎に逗留したという場合などもあり、ことに自分は温泉が好きで、保養かたがたの滞在という場合も多く、したがってそのすべてが研究調査の目的のもとに行われたもののみではない。しかしながら、ついでながらにしてもそこにいくらかでも自分の研究の上に資するところがあり、それが日誌に収められたほどのものは、なるべくこれを収めることにした。その代りに普通の意味からは、確かに数日に渉って旅行と称すべきものであっても、単に帰省、音問、講習講演、公務の出張、その他私用のみに係るがごときものは、多くはこれを省略した。京都および仙台の大学へ講義のために出かけたさいのごときも、単にそれのみに終った場合また同様である。 なおこれらの旅行については、到る処地方特志の方々の御厄介になり、暖かい優待を辱うして、東道その他の便宜を与えられたことがはなはだ多く、最も愉快に知見を拡め、調査の目的を達し得たことは、常に感銘して感謝措く能わざるところである。また東照宮三百年祭記念会、仙台の斎藤報恩会、および文部省などから研究資金を給せられて、少からず旅行の費用を弁じ得たことも、ここに特記して永久に記念せねばならぬ。本来自分の研究は、書斎に閉じ籠っての文献いじりから来たものよりも、造物・遺蹟を実地に調査したり、埋没せる資料を探索採訪したり、あるいは直接にその境に臨んで、眼から、耳から、求め得たところのものがはなはだ多い。しかしてそれは主として旅行の賜である。自分の健康も、またこの旅行によって保持されるところがすこぶる多いと思う。かつては役所籠りや書斎籠りの過度の身体虐待から、はなはだしく健康を損じて十年近くも苦しみ抜き、一時は必死をまで覚悟させられたほどの痼疾が根治することの出来たのも、また主として旅行のお蔭だと自分は思っている。仲間の諸君の続々世を早うせられた中に自分がたまたま生き遺って、なおいくらかでも学界に活動を持続し得るの今日あることも、また主として旅行の賜であると思う。しかしてそれを思う時に、自分は、それが自分をして容易に旅行し得しめられた方々に負うところの多いことについて甚深の感謝を表する次第である。 終りに臨んで、自分の日誌を繰り出す便宜のために、前記年譜から旅行年時の大要を地方別に抄録しておく。 〔府県別索引〕 [#これより折り返して1字下げ] 北海道 大四、八(函館および附近、余市、手宮、小樽、札幌、白老、室蘭等) 大一二、七(函館、小樽、手宮、札幌、佐瑠太、ビタルバ、静内、平取、白老、室蘭) 大一五、五(函館、樽岸、札幌、旭川「天塩岳爆破」、白老、室蘭) 大一五、八(函館、朝里、札幌「史料展覧会」、厚別、白老、室蘭) 昭二、七(室蘭、登別、白老、札幌、旭川、上川「層雲峡」) 昭六、七(函館、小樽、札幌、旭川、遠軽、網走、川湯、クッチャロ、釧路、厚岸、根室、帯広、佐瑠太、平取、白老、登別、室蘭) 昭六、一〇(札幌、江別兵村「古墳」) 昭七、七(函館、札幌、旭川、帯広、白老、室蘭) 青森県 大四、八(青森、弘前) 大一二、七(弘前、青森、八戸「泉山氏」) 大一四、六(千曳、青森、弘前、大鰐) 大一四、七(七戸、青森、三厩「宇鉄」、中師、その他) 大一四、八(八戸、是川、鮫、青森、弘前) 大一四、一〇(青森「佐藤蔀氏」、野辺地、田名部、下北半島「大間まで」) 大一四、一一(青森、八戸、是川、小中野) 大一四、一二(青森、浪岡、黒石、八戸、是川) 大一五、二(青森、八戸) 大一五、五(青森) 大一五、七(青森、内潟、相内、十三、亀岡、床舞、五所川原) 大一五、八(八戸、根城、青森) 大一五、八(青森、七戸、倉岡、新館) 大一五、九(青森、相内、弘前) 大一五、一〇(弘前、浪岡、青森) 昭二、七(青森) 昭三、八(弘前、藤崎、黒石、大光寺、青森、小湊、七戸、八戸) 昭四、四(八戸、是川「大山史前学会発掘」) 昭四、一〇(八戸、是川、鮫「杉山氏同行」、七戸、青森、浪岡、弘前、大鰐その他) 昭六、四(是川、弘前) 昭六、一一(黒石、山形「山民調査」) 昭七、七(是川、野辺地、青森) 昭七、一一(是川、青森、弘前) 岩手県 大四、八(平泉、盛岡、福岡「国香氏」、上斗米) 大一二、七(福岡、一方井、盛岡、平泉) 大一四、三(盛岡) 大一四、五(平泉「清衡八百年祭記念展覧会」、鵜木館、花巻) 大一四、六(盛岡その他) 大一四、七(水沢「鳥海柵」、江刺、胆沢城その他) 大一四、八(岩谷堂「史料展覧会」、宮野目館その他) 大一四、九(一関、厳美渓、宅谷窟、平泉) 大一四、一二(盛岡、福岡「国香氏」、爾薩体) 大一五、七(盛岡、一戸、金田一) 大一五、八(花巻、日詰、古館、徳田、見前、盛岡) 大一五、九(盛岡、太田「方八町」、滝沢、米内館) 大一五、一〇(岩谷堂、花巻) 昭二、四(日詰、古館、胡四王、水沢) 昭二、五(花巻「附近館調査」、日詰、二子) 昭二、六(花巻、小鳥崎、盛岡「史料展覧会」、日詰、黒沢尻、二子) 昭二、八(中尊寺) 昭二、九(古館、花巻) 昭三、八(花巻) 昭五、四(時田館その他) 昭六、五(一戸、宮古) 昭六、一〇(一関、平泉) 昭七、一一(盛岡) 宮城県 明二七、一〇(仙台、塩竈、松島) 大四、八(仙台「国分両寺その他」) 大一一、一一(桃生地方「北村、前谷地、飯野川その他」) 大一三、一〇(鳴子) 大一四、三(前谷地) 大一四、三(岩出山、大崎「東陽寺」) 大一四、五(仙台「史料展覧会」、多賀城その他) 大一四、九(築館、宮野、城生野「伊治城」、沢辺、岩ヶ崎、営岡) 大一五、一(前谷地) 大一五、一〇(鳴子) 昭二、三(石巻「毛利・遠藤両氏」その他) 昭二、六(塩竈、松島) 昭二、八(秋保) 昭二、一〇(岩出山、大崎「東陽寺」、丸山館、大崎城址その他) 昭二、一〇(桃生城址、石巻、蛇田、沼津「遠藤・毛利氏同行」) 昭二、一二(秋保) 昭三、三(亘理、鹿島) 昭三、四(塩竈) 昭三、四(仙台「東北史料展覧会」) 昭四、四(塩竈) 昭五、四(古川町、三本木その他) 昭六、五(一迫、真坂) 昭六、六(石巻) 昭七、九(青根、峨々、遠刈田) 福島県 大七、八(会津若松) 大一三、一二(郡山) 大一四、一〇(郡山、福島) 大一四、一一(郡山、会津若松、一箕山その他) 大一四、一一(会津袋原) 大一四、一一(福島) 大一五、八(郡山、三春) 大一五、九(三春) 昭二、三(福島) 昭二、八(新地) 昭二、一〇(福島、厚樫山) 昭二、一〇(福島) 昭三、八(郡山) 秋田県 大四、八(秋田) 大一二、三(飯詰、金沢) 大一二、七(大曲、秋田、土崎、寺内「秋田城」) 大一三、一〇(飯詰、金沢) 大一四、六(秋田、仙北) 大一四、七(秋田) 大一四、一〇(鷹巣、藤株、麻生、七座) 大一四、一一(鷹巣、藤株) 大一四、一二(鷹巣その他、秋田「真崎氏遺物展覧」) 大一五、二(鷹巣) 大一五、九(機織) 大一五、一〇(横手、大森、秋田、寺内) 昭二、五(鷹巣、藤株、秋田、横手) 昭三、五(角館、生保内、田沢) 昭三、八(秋田) 昭四、一〇(秋田) 昭五、四(払田「柵址」、横手地方) 昭六、四(秋田、八森「加賀氏」、檜山、払田、藤木、六郷、石名館、横手、金沢) 昭六、五(横手、角館、土川) 昭六、一一(矢島) 昭七、一一(横手、六郷、藤木) 山形県 大四、八(新庄、山形) 大一一、一一(松嶺、藤島、酒田、本楯、吹浦) 大一二、三(山形) 大一二、七(鶴岡、大山、清川、立谷沢、砂越、松嶺、本楯) 大一三、一〇(藤島その他) 大一四、三(藤島その他) 大一四、八(吹浦、遊佐、酒田、松嶺、大曲) 大一四、一〇(山形、寒河江) 大一五、二(藤島) 大一五、七(洒田、藤島) 大一五、一一(庄内、山形) 昭二、五(酒田、新庄「接引寺」) 昭二、一〇(山形「展覧会」、庄内、羽黒) 昭三、八(山形、鶴岡、酒田) 昭三、八(五色温泉) 昭四、一〇(松嶺) 昭五、四(松嶺、大山「尾浦城址」その他) 昭六、五(本楯「城輪柵址」) 昭六、一一(本楯「城輪」、渡前、鶴岡、大山、黒川「宝※[#小さいガ]谷」その他) 昭七、一一(新庄、庄内) 茨城県 明三三、四(守谷、筑波) 明三九、一〇(筑波その他) 昭六、三(鹿島、水戸その他) 千葉県 明三一、一二(香取、銚子) 明三二、六(滑川、小御門) 明三九、一〇(佐原、香取) 明四三、一一(佐原) 大七、一(銚子) 大八、九(成田、銚子) 大一〇、八(千葉、飯野その他) 栃木県 明二七、一〇(日光) 明三〇、一一(日光、湯元) 明三三、三(足利) 大一三、一一(宇都宮) 大一五、三(宇都宮) 昭二、五(足利、栃木、薬師寺、国分寺、宇都宮) 昭七、八(宇都宮、長岡百穴) 群馬県 明三四、一一(妙義山) 明四〇、一二(前橋、磯部) 大一四、二(前橋、世良田) 埼玉県 明三二、九(吉見百穴) 明三三、七(川越) 明三四、二(熊谷) 明四三、二(浦和) 明四四、九(寄居) 明四五、六(岩槻、真福寺貝塚) 大二、三(蓮沼) 大二、六(吉見百穴その他) 大一三、三(熊谷) 昭三、一〇(深谷、石塚) 東京府 明三二、二(国分寺、府中) 明四二、七(芝公園丸山古墳) 明四五、三(府中、国分寺) 大四、四(銅駝坊考古館) 大四、一〇(博物館「御即位に関する展覧」) 大五、六(南加瀬、品川「江見氏」) 大五、一〇(品川「江見氏」) 大一二、九(震災視察) 昭二、三(多摩陵参拝、高尾) 昭七、七(多摩陵参拝、高尾) 神奈川県 明三一、二(鎌倉) 明三一、一〇(箱根) 明三八、一〇(箱根) 明四一、八(鎌倉) 明四一、一〇(鶴見「お穴様」) 明四二、五(横浜) 明四二、八(小田原) 明四三、一二(箱根) 明四四、六(鎌倉) 明四四、七(三浦三崎) 明四五、三(鎌倉地方横穴) 大元、八(鎌倉) 大二、八(鎌倉) 大四、六(箱根) 大四、一二(箱根) 大五、八(横浜「岡野公園」) 大五、一〇(横浜) 大六、九(鎌倉) 大一二、七(厚木、国分寺) 大一二、九(鎌倉、横浜「震災視察」) 大一三、八(茅ヶ崎「相模川旧橋杭視察」、厚木、海老名) 昭三、三(箱根) 静岡県 明三三、八(静岡、久能山) 明三五、八(富士登山) 明四二、七(興津) 明四五、六(韮山、三島、長岡その他) 大元、八(韮山、修善寺) 大二、一二(長岡その他) 大五、六(浜松、蜆塚、有玉その他) 大五、七(浜松) 大六、一(興津「禊視察」) 大六、三(静岡、小鹿、清水山古墳) 大六、九(浜名湖、摩珂耶寺) 大七、五(興津、長者山古墳) 大七、八(興津古墳) 大七、九(遠江中泉、国分寺) 大八、八(遠江川崎、相良) 大八、九(沼津) 大一五、一(浜松) 愛知県 明四二、一一(名古屋) 大元、九(熱田、名古屋) 大五、四(豊橋、菟足、豊川) 大五、七(豊橋) 大五、八(名古屋、熱田高倉貝塚) 大七、九(三河刈屋、名古屋) 大一〇、一〇(三河挙母、上伊保) 大一三、一一(名古屋) 大一三、一二(熱田) 大一四、一(豊橋、国分寺その他) 大一四、二(豊橋) 昭三、一〇(熱田) 昭七、一二(名古屋) 三重県 明二六、一(参宮、鳥羽) 明四三、一(参宮) 大六、四(参宮、鳥羽、松坂) 大一一、一〇(津地方古墳その他) 大一二、八(津) 大一三、一(津) 昭六、一(参宮、朝熊) 山梨県 明三五、八(大月、吉田、富士登山) 長野県 明三三、八(浅間登山、上田、国分寺、善光寺) 大八、一〇(善光寺、伊那、木曾) 大九、一一(上田、国分寺その他) 大一三、二(上田、別所温泉) 大一三、一一(長野) 昭六、九(桑名川) 岐阜県 大四、六(大垣、養老滝) 大一三、一一(岐阜、加納) 新潟県 明三三、八(高田、春日山、国分寺) 大五、六(直江津、国分寺) 大七、八(長岡、新潟) 大一四、一一(新潟、沼垂) 大一五、七(高田、斐太、菅原) 昭二、五(日出谷、高田、糸魚川) 昭二、一一(新潟、長岡、高田、潟町、塔ヶ崎) 昭三、七(佐渡各地、新潟、長沢、高田、新井) 昭三、一〇(高田) 昭六、九(高田) 昭七、一一(高田) 富山県 大五、六(泊) 大七、八(氷見洞窟、朝日貝塚) 大九、一一(入善、泊) 大一四、八(福野) 大一五、二(富山「早川氏」) 昭二、五(富山、高岡、氷見) 石川県 大七、八(金沢) 大八、四(金沢) 大一三、三(金沢、七尾、輪島、那谷寺、法皇山その他) 福井県 大三、六(福井、山代) 大五、六(福井、河和田、武生) 大九、八(福井、芦原、三国、若狭耳村) 昭六、九(若狭羽賀寺、敦賀) 昭六、一一(若狭羽賀寺) 滋賀県 明四一、六(大津京址) 明四二、五(大津、膳所) 明四三、五(大津) 明四四、一二(息長、醒井) 大元、一二(大津京址) 大四、三(和邇その他) 大四、一〇(蒲生地方) 大四、一一(大津京址) 大五、二(坂本、穴太) 大五、三(信楽京址) 大五、五(石山、国分、建部神社) 大五、五(葦浦、守山、小篠原) 大八、九(五箇庄) 大九、一〇(大津) 大一〇、三(長浜) 大一一、一一(大津京址) 大一二、三(瀬田) 大一五、二(長浜「下郷氏」) 昭四、八(叡山) 昭六、五(大津京址、三井寺) 京都府 明二八、四(京都平安奠都千百年祭) 明三一、三(京都、田辺、木津) 明三二、一二(笠置、瓶原) 明三三、八(京都各地) 明三三、一二(鳥戸野) 明三七、一二(嵯峨) 明三八、一二(宇治、山科) 明四一、五(将軍塚) 明四二、五(京都郊外視察) 明四二、五(長岡京址) 明四二、五(天部その他) 明四三、五(御所離宮拝観) 明四三、五(山科) 明四四、四(山科) 明四四、五(宇治、田辺その他) 明四四、一〇(長岡) 明四四、一一(鞍馬その他) 明四四、一一(御所拝観) 明四四、一一(太秦その他) 明四四、一一(椿井、瓶原、海住山) 明四四、一二(稲荷山経塚) 大元、九(桃山御陵参拝) 大元、一〇(丹後湊村) 大二、一一(高雄その他) 大二、一一(御所拝観) 大三、二(高野、八瀬) 大三、二(八瀬、大原) 大三、九(白川瓦窯) 大四、三(大極殿址その他) 大四、五(宇治) 大四、五(木幡) 大四、一〇(アイヌ風俗視察) 大五、三(恭仁京址) 大六、五(向日町、長岡) 大六、一一(石清水) 大八、三(柳原) 大八、三(野口) 大八、三(山崎) 大八、四(田中) 大八、四(柳原) 大八、五(三条寺裏) 大九、四(嵯峨) 大九、一〇(醍醐) 大一〇、一一(熊野田楽) 大一一、一〇(宮津、舞鶴) 大一二、二(宇和島鹿子踊) 大一三、六(木津、薪その他) 大一三、九(福知山、宮津) 大一五、二(舞鶴) 大一五、四(和田山) 大一五、九(石清水) 昭五、四(京都「藤井氏」、西本願寺、御所拝観その他) 昭六、一一(綾部) 奈良県 明三一、三(奈良、平城京址、法隆寺その他、吉野) 明三三、八(桜井、畝傍、初瀬その他東部各地) 明三八、六(法隆寺、平城京址) 明三八、一二(平城京址、法降寺その他) 明四一、五(畝傍、飛鳥その他) 明四一、五(東大寺大仏殿発掘品その他) 明四一、五(西京、飛鳥、檜前) 明四一、八(各地条里調査) 明四二、四(奈良、法隆寺、安倍その他) 明四二、五(奈良郊外、大和平野東部各地) 明四四、一〇(正倉院その他) 明四四、一〇(桜井、忍坂、多武峯、飛鳥) 明四四、一一(南葛城地方) 明四四、一二(檜前、南葛城各地) 大元、一一(奈良、正倉院) 大二、七(奈良) 大二、一〇(飛鳥地方) 大三、五(生駒山、志貴山) 大三、一〇(正倉院) 大五、一〇(正倉院) 大六、一一(正倉院) 大六、一一(大黒めぐり) 大六、一二(奈良、美術院) 大七、五(郡山、洞泉寺湯船、吐田郷銅鐸) 大七、五(飛鳥地方) 大七、一〇(三島、石上) 大七、一一(正倉院) 大八、四(奈良西坂) 大八、一〇(高田その他) 大九、一一(正倉院) 大九、一二(五条その他) 大一〇、四(奈良、法隆寺その他) 大一〇、六(安倍、飛鳥その他) 大一〇、九(飛鳥、檜前、南葛城古墳) 大一〇、一〇(忍坂、倉梯) 大一〇、一一(正倉院) 大一〇、一一(南葛城地方) 大一一、五(南葛城、八木「森田氏蔵品」) 大一一、一一(飛鳥) 大一二、一(御所) 大一二、三(高田) 大一二、四(南葛城地方) 大一三、一(奈良、北山十八間戸) 大一四、四(奈良「正倉院裂展覧」) 大一五、四(法隆寺「塔心柱礎」その他) 大一五、一一(正倉院) 昭二、五(初瀬、榛原、室生、三本松) 昭二、一〇(奈良) 昭二、一一(奈良) 昭三、五(奈良「西ノ京」、榛原、小川、国栖、宮滝) 昭三、一〇(正倉院) 昭四、一一(正倉院) 昭五、三(奈良「春日御田植祭」) 昭五、四(奈良その他) 昭六、一(吉野宮滝) 昭七、四(奈良「正倉院御物裂展覧」) 昭七、一一(正倉院) 和歌山県 明三一、四(高野山、和歌山) 大五、六(和歌山、鳴神、和歌浦) 大一〇、四(高野山、端場、和歌浦) 大一二、八(高野山) 大一四、三(田辺、白浜) 大一四、四(高野口) 大一四、八(御坊、南部その他) 大一五、三(和歌山、野崎) 大阪府 明三一、四(和泉古墳) 明三三、八(大阪、堺、河内各地) 明三四、一二(四条畷、六万寺) 明三六、五(勧業博、皇陵巡り) 明四一、六(天王寺、阿部野その他) 明四四、四(大阪城址その他、河内渚院、樟葉) 明四四、一二(南河内地方) 明四五、一(河内各地古墳) 大元、九(南河内地方) 大元、一一(住吉、堺、久米田) 大三、五(服部川千塚、生駒、高安その他) 大四、五(河内各地古墳) 大四、一一(大阪博物館「御大典郷土史料展覧会」、堺、陵墓めぐり) 大五、二(八尾、岸和田) 大五、四(四条畷、枚方、太泰) 大五、五(高槻、石川年足墓) 大五、一〇(富田林地方) 大五、一一(河内国府、道明寺、平尾山その他) 大六、一(堺「前田氏、鹿島氏」) 大六、四(長柄宮址その他) 大六、六(河内国府) 大六、八(浜寺「本山氏」) 大六、一〇(河内国府、高井田) 大六、一一(大黒めぐり) 大六、一一(戎めぐり) 大七、四(河内国府その他) 大七、四(河内国府) 大七、五(高井田、河内国府) 大七、一〇(浜寺) 大八、四(河内国府) 大八、五(河内柏原) 大一〇、三(浜寺) 大一〇、一一(浜寺「本山氏蔵遺物展覧」) 大一二、九(堺) 大一三、三(大阪東郊) 大一三、六(浜寺「山川氏」) 大一三、一一(南河内古墳) 大一四、四(河内誉田) 大一五、一(大阪、浜寺) 昭二、一〇(大阪、三島) 昭二、一一(三島、継体陵) 昭二、一二(大阪) 昭四、八(牛滝) 昭五、三(浜寺「本山氏」、河内各地古墳その他) 昭六、五(天王寺石棺その他) 兵庫県 明二六、四(播磨名所めぐり) 明三五、三(姫路) 明三七、一一(姫路、城崎、但馬海岸徒歩) 明四一、六(兵庫) 明四四、五(神戸その他) 大元、一一(二楽荘) 大二、一一(箕面、多田院) 大五、二(池田地方) 大五、八(城崎、香住) 大五、一〇(神戸「福原氏」) 大五、一一(西宮、打出) 大五、一一(兵庫、須麿「福原氏案内」) 大六、八(神戸) 大六、一一(明石、垂水海神社、石宝殿) 大七、二(二楽荘「佐藤氏蒐集遺物」) 大七、六(丹波柏原) 大九、五(兵庫、夢野古蹟その他) 大九、一二(須磨) 大一〇、五(淡路、福浦、沼島その他) 大一一、一(六甲) 大一二、二(明石、唐櫃) 大一二、六(明石) 大一二、一〇(淡路、洲本、市村、国分寺) 大一三、四(尼崎) 大一四、三(播磨佐用) 大一五、一(二楽荘) 大一五、四(二楽荘) 昭三、五(垂水) 昭三、一〇(二楽荘) 昭五、三(西宮「辰馬氏」) 昭五、一〇(西宮、打出、魚崎) 昭六、一一(有馬) 鳥取県 明三七、一一(鳥取、淀江、米子) 大元、一〇(淀江、大湊) 大六、八(米子、淀江) 大九、一〇(浜村) 大一〇、三(鳥取、淀江) 大一三、七(淀江、米子) 大一五、四(淀江) 島根県 明三七、一一(美保、隠岐、松江、大社、浜田、津和野) 大元、一〇(松江、塩谷、今市、大社) 大五、八(大根島、松江、大庭、大社、神魂、玉造その他) 大七、七(大社、簸川郡地方) 大一〇、三(大社、玉造) 大一五、四(松江、熊野その他) 岡山県 明二六、四(岡山) 大六、一(岡山) 大六、四(吉備津、加藤、三須その他「永山氏案内」) 大六、一〇(岡山) 大八、一〇(津雲) 大一五、二(岡山) 昭七、一〇(岡山) 広島県 明三五、三(福山、広島) 明三七、一一(広島、福山) 明三八、五(広島、宇品) 大七、七(三次、広島) 大八、七(福山、鞆) 大八、一〇(鞆、田島) 大一二、一二(広島) 大一三、八(尾道) 大一三、九(福山、三次) 大一五、三(広島、呉) 山□県 明三五、三(下関) 明三七、一一(三田尻、柳井津) 明四一、七(長府その他) 明四二、一二(三田尻、石城山、下関) 明四三、七—八(長府その他) 大七、七(下関) 大一〇、七(三田尻古墳、国分寺その他) 大一五、二(山口) 昭四、四(山口、厚狭、福川、田布施、平生) 徳島県 明二九、八(祖谷) 明三一、八(丈六寺) 明三五、七(各地) 明四二、八(国分寺その他) 大三、八(小松島その他) 大四、三(国府、国分寺その他) 大四、一一(銅鐸調査その他) 大五、三(渋野、石井、池谷) 大五、一〇(呉郷文庫) 大六、四(池谷、大寺、金泉寺) 大六、一〇(撫養) 大七、一〇(脇町) 大八、三(中島、富岡) 大八、一〇(三谷、飯尾) 大九、三(小松島、飯尾) 大一〇、五(丈六その他) 大一一、九(池田、三庄) 大一一、一二(穴吹) 大一三、四(脇町、飯尾) 大一三、八(平島、小松島) 大一五、一(下八万、徳島) 昭三、四(飯尾) 香川県 明二六、四(高松、琴平) 明二七、七(観音寺その他) 明三九、六(各地) 明四二、八(高松その他) 明四三、八(屋島、国府その他) 大二、八(高松附近石塚、屋島) 大六、四(高松、長尾、猫塚その他) 大六、一〇(高松、金倉、観音寺) 大一三、八(本山、観音寺、笠岡) 愛媛県 明三九、五(宇和島、大津、松山その他) 大一三、一〇(松山、道後) 高知県 明三九、五(高知、室戸、宿毛その他) 福岡県 明三五、三(福岡、雷山、太宰府、久留米、高良山、石人山その他) 明四〇、七(福岡、太宰府、久留米、女山、直方、怡土その他) 明四二、一二(中津、御所谷、太宰府) 明治四三、七(豊津、小倉、久留米その他) 明四五、一(太宰府、大善寺、一条、吉田、浮羽、二川その他の古墳) 大四、一(鹿毛馬、福岡、香椎寺) 大四、七(久留米日輪寺) 大六、六(福岡、怡土地方) 大七、七(福岡、香春、夏吉) 昭四、一一(福岡、太宰府その他) 昭七、一〇(太宰府、博多) 佐賀県 明三五、三(佐賀、唐津、名護屋、伊万里) 明四二、一二(基肆城址) 大一二、一二(佐賀、鹿島) 大一五、二(佐賀) 長崎県 明三五、三(長崎) 大一五、二(長崎) 熊本県 明三五、三(熊本) 明四四、一二(熊本その他) 大四、一(阿蘇) 大五、三(熊本、宇土、千金甲、繁根木、江田) 大七、七(阿蘇内牧、熊本) 大一三、七(熊本、井寺) 昭七、一〇(人吉、日奈久) 大分県 明三五、三(宇佐、別府、大分、耶馬渓) 明四二、八(別府、大分) 明四四、一二(宇佐、別府、庄原、国東) 大六、一二(別府、大分、永興古墳、国東、臼杵、満月寺、佐伯) 大一三、一〇(別府、春日浦、旭町) 昭二、八(別府) 昭三、二(別府) 宮崎県 大元、一二(細島、宮崎、西都原、青島その他) 大三、一二(都城、小林、天逆鉾、宮崎、本庄、妻、延岡、高千穂その他) 大四、七(宮崎) 大五、三(福島、酒谷、鵜戸、本庄その他) 大六、七(宮崎、柏田、岩戸、綾、清武その他) 大六、一二(延岡、大貫、都農、高鍋、宮崎、佐土原) 昭二、八(宮崎、妻、延岡、天下) 昭三、二(宮崎、本庄、延岡) 昭四、一一(宮崎、延岡、大峡、高千穂、田原その他) 昭七、一〇(宮崎) 鹿児島県 大元、一二(大隅国分、鹿児島) 大四、七(鹿児島、阿多、加世田) 大五、三(鹿児島、川内、吉野、垂水、桜島、串良、横瀬) 大六、六(鹿児島、志布志、大崎、岡崎、西串良、吉田) 大七、一(鹿児島、揖宿、鹿屋、横山、壺屋) 昭二、八(鹿児島) 昭七、一〇(奄美大島、鹿児島) 沖縄県 昭七、一〇(沖縄島各所) 朝鮮 大九、五(釜山、東莱、京城、開城、平壌その他) 大一三、七(釜山、京城、驪州、水原、公州、扶余、大邱、慶州その他) 満洲 明三八、五(戦地見学、金州、大連、旅順) 大九、五(奉天、大連、旅順その他) [#折り返しここまで] ----------------------------------- 【テキスト中、置きかえた漢字】 [第3水準1-91-6]→莱 [第3水準1-94-3]→顛 ----------------------------------- ※ 底本の編注は省略しました。 底本:『喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌』平凡社 1982(昭和57)年11月25日発行 初出:『還暦記念 六十年の回顧』 1933(昭和8)年4月発行 (底本 p622、書誌一覧より) 入力:しだひろし 校正:(2008年6月30日現在、未校正) xxxx年xx月xx日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http //www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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1/31(Tue) 阿部芳郎 2005「「盛土遺構」と遺丘集落 ~「発見の時代」から「検証の段階」へ~」『縄文時代における印旛沼周辺地域の基礎的研究』 Ⅹ 1/30(Mon) 大村裕 1994「「縄紋」と「縄文」-山内清男はなぜ「縄紋」にこだわったのか?-」『考古学研究』41-2 1/28(Sat) 野村一寿 1984「塩尻市焼町遺跡第1号住居址出土土器とその類例の位置付け」『中部高地の考古学』3 1/27(Fri) 金子裕之 1982「縄文時代Ⅲ(後期・晩期)」『日本の美術4』191 1/26(Thu) 鈴木公雄 1969「土器型式における時間の問題」『上代文化』38 1/25(Wed) 菊池徹夫 1971「考古学における 時 の区分について」『史観』84 1/24(Tue) 谷口康浩 2001「環状集落の空間構成」『縄文時代集落研究の現段階』 1/23(Mon) 高橋護 1958「土器とその型式」『考古学手帖』1 鈴木公雄 1964「土器型式の認定方法としてのセットの意義」『考古学手帖』21 1/22(Sun) 谷口康浩 1998「縄文時代集落論の争点」『國學院大學考古学資料館紀要』14 1/20(Fri) 向坂鋼二 1976「縄文時代のテリトリー 東海地方東部をめぐって」『どるめん』8 寺内隆夫 2006「千曲川流域における中葉~後葉移行期の土器群」『縄文研究の新地平~勝坂から曽利へ~』 1/19(Thu) 桜井準也 1991「土器型式の流れの数量的分析-南関東地方への曽利系土器の流入を巡って-」『信濃』43-4 上野佳也 1980「情報の流れとしての縄文土器型式の伝播」『民族學研究』44-4 1/18(Wed) 喜田貞吉 1936「日本石器時代の終末期について」『ミネルヴァ』1-3 山内清男 1936「日本考古学の秩序」『ミネルヴァ』1-4 喜田貞吉 1936「「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」-日本石器時代終末期問題-」『ミネルヴァ』1-5 喜田貞吉 1936「又も石器時代遺跡から宋銭の発見」『ミネルヴァ』1-6/7 山内清男 1936「考古学の正道-喜田博士に呈す-」『ミネルヴァ』1-6/7 1/17(Tue) 山内清男 1966「画竜点睛の弁」『成城新聞』1966年9月24日・12月5日号 谷口康浩 2002「縄文土器型式情報の伝達-関東地方に分布する曽利式土器を例に-」『土器から探る縄文社会』 谷口康浩 1986「縄文時代の親族組織と集団表象としての土器型式」『考古学雑誌』72-2 1/16(Mon) 谷口康浩 2003「縄文時代中期における拠点集落の分布と領域モデル」『考古学研究』49-4 1/15(Sun) 千葉県北西部地区文化財行政担当者連絡協議会「温故知食-たべものと人々-」 1/13(Fri) 佐藤洋一郎他 2002「縄文農耕を捉え直す」『SCIENCE OF HUMANITY』Vol.41
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週刊ミルクティー*第11号〜(特集 蝦夷論/考古学/博物館) 価格の改定 今号(第十一号)より、定価を210円(税込)から200円(税込)へ改定いたします。消費税を納める心配は、とうめんなさそうですので。 2008.10.5 2009.1.10 第二五号 博物館(五)浜田青陵 定価:200円(税込) p.179 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(46項目)p.258 二、日本原史時代室 (ト) 刀剣と甲冑 (チ) 馬具、土器その他 (リ) 建築、彫刻、絵画など (ヌ) 古瓦と古建築 三、朝鮮・満州の古墳室 (イ) 南朝鮮の古墳 (ロ) 北朝鮮および満州の古墳 むかし、雄略天皇の御時、河内の安宿郡(あすかべぐん)の人に田辺伯孫という人がありまして(略)それは月夜の晩のことでありましたが、あの応神天皇(伯孫の時から百年ほど前にあたる)の御陵の前を通りかかると、非常に立派な赤い馬に乗っている人に出会いました。自分の馬はのろくてとてもかないませんので、その馬をほしく思い、いろいろ話をして馬を取りかえてもらい、喜んで家へかえりました。ところが翌日厩へ行ってその赤馬を見ますと、おどろいたことには、それは土の馬でありました。これはへんなことだと、伯孫はゆうべの応神天皇の御陵の所へ行ってみましたら、自分の乗っていた馬は、御陵の前にある埴輪の土馬(つちうま)の間におって、主人をまっていたので、またびっくりしましたが、ようやくその馬と土馬と取りかえて家へつれて帰ったというおもしろいウソのような話であります。これはその時分河内の役人から朝廷へ報告した事実でありまして、とにかく当時馬に乗ることがおこなわれており、また埴輪の馬が御陵に立っていたことを、われわれに教えてくれる話であります。 25.rm (rm形式:200KB、1'36秒) #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第25号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (1MB) 2009.1.3 第二四号 博物館(四)浜田青陵 定価:200円(税込) p.166 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(66項目)p.401 二、日本原史時代室 (イ) 日本の古墳 (ロ) 埴輪と石人 (ハ) 石棺と石室 (ニ) 上古の帝陵 (ホ) 勾玉などの玉類 (ヘ) 古い鏡 また埴輪(はにわ)の人形や馬と同じ形のものを、石で作ってお墓に立てたこともありました。これを石人、石馬などと申しております。しかしこれは日本のごく一部におこなわれただけで、九州の筑後や肥後などに時々見ることができます。筑後には昔継体天皇の御時、磐井という強い人がおって、朝鮮の新羅の国と同盟して、天皇の命にそむいたので、とうとう征伐されてしまいましたが、この人は生きている時分から、石でお墓を作り、石の人形などを立てて、豪勢を示していたということが、古い書物にでております。ちょうどこの磐井のおった地方に、今も石人・石馬が多く残っているのはおもしろいことです。 24.rm (rm形式:120KB、57秒) #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第24号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (1.2MB) 2008.12.27 第二三号 博物館(三)浜田青陵 月末最終週:無料 p.205 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(40項目)p.135 第三、考古博物館の巻(下) 一、日本先史時代室 (イ) 日本の石器時代 (ロ) 貝塚、墓地などの遺跡 (ハ) 石器と骨角 (ニ) 土器と土偶 (ホ) 朝鮮と支那の石器 (ヘ) 青銅器と銅鐸 それは今から五十年ほどまえに、アメリカから日本の大学の教授になって来たモールスという先生が、初めてわれわれに教えてくれたのであります。この先生は動物学者でありまして、日本へ来る前に、アメリカのフロリダという所で石器時代の貝塚を掘った経験があり、その方面の学問にもくわしい人でありました。明治十二年に船で横浜に着きまして、その頃できていました汽車で東京へ行く途中、汽車の窓からそこら辺の風景をながめておりました。ところが大森駅の付近において線路の上に白い貝殻が多く散乱しているのを見つけまして、これはきっと石器時代の貝塚があるのに違いないと思い、それから間もなくこの大森へ発掘に出かけました。はたしてそれは貝塚でありまして、石器や土器が多数に出てきたのです。これが日本において貝塚を研究するために発掘した最初であります。 #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第23号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (1MB) 2008.12.20 第二二号 博物館(二)浜田青陵 定価:200円(税込) p.215 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(59項目)p.298 第二、考古博物館の巻(上) 一、考古学とはどういう学問ですか 二、旧石器時代室 三、新石器時代室 私は七、八歳の少年時代から、昔の人の作った石の矢の根などを集めて喜んだのでありましたが、そのころ私は石の矢の根は人間の作ったものではなくて、水晶や何かと同じように自然にできた石だとばかり信じておりました。またある人は石の矢の根は天狗の作ったものだと話してくれました。しかしそれは、今日から四十年ほどまえのことでありまして、そのころには日本のどこへ行っても考古学の博物館というものは一つもなく、また石の矢の根のようなものについても、説明した書物がなかったのであります。もしそのころ考古学の博物館があったならば、石の矢の根は自然にできたものでもなく、また天狗の作ったものでもなくて、古い時代に人間が作ったものであるということがわかったことでありましょう。 #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第22号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (1.7MB) 2008.12.13 第二一号 新連載・博物館(一)浜田青陵 定価:200円(税込) p.136 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(25項目)p.164 はしがき 第一、序の巻 一、博物館とはどういう所ですか 二、世界各国の大博物館 博物館は、最初にも申したとおり、ただ珍しいものや美しいものをたくさんに並べるというところではなくて、それらがあるいは年代の順に、あるいは地方の別にというふうに、品物を順序よく系統を立てて並べ、これを見る人が知識を広め学問をするために作られたものでありますから、博物館の良い悪いということはその所に並べてあるものが多いか、少ないとかいうことよりも、また珍しいものがあるとかないとかいうよりも、その並べ方が良くできているかいないかというのできまるのであります。 #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第21号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (1.2MB) 浜田青陵 はまだ せいりょう 1881-1938(明治14.2.22-昭和13.7.25) 濱田 耕作(はまだ こうさく)。大阪府岸和田市生まれ。考古学者。東京帝国大学で美術史を専攻し、卒業後、ヨーロッパに留学して考古学の研究を続ける。帰国後は京都帝国大学考古学研究室の初代教授に就任。梅原末治、末永雅雄、小林行雄らを見出し、考古学における京都学派を形成する。従来の日本の考古学の手法にヨーロッパの考古学研究方法を取り入れ、更には中国及び朝鮮半島を含むアジアの遺跡を調査。 ◇参照:Wikipedia 2008.12.6 第二〇号 特集・考古学(五)喜田貞吉 「鐵」の字の古体と古代の文化 石上神宮の神宝七枝刀 八坂瓊之曲玉考 定価:200円(税込) p.162 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(69項目)p.264 「鐵」の字の古体と古代の文化 「鐵」の字古く「銕」また「※[#「金+截」、p262-1]」に作る。「銕」の字は旁(つくり)が「夷」に従っている。夷は東方異族の称で、「銕」はすなわち東夷の金の義である。東方の国早くこの金属を産し、シナに輸入したものと見える。『魏志』に「国鐵を出す、韓・※[#「さんずい+歳」、第3水準1-87-24]・倭皆従ひて之を取る。諸市買ふに皆鉄を用ふ」とある。「神功紀」に、百済谷那(こくな)の鉄山(てつむれ)の事もある。わが国にも随処砂鉄を産する地多く、鉄を採るの術早く開けて、いわゆる青銅器時代を経ずして、太古の石器時代から、ただちに鉄器時代に移った場合が多かったようである。これは石器時代の遺蹟から、ただちに鉄※[#「金+宰」、p262-5](かなくそ)の出る遺蹟に続いている場所の少からぬによっても察せられる。 石上神宮の神宝七枝刀 昨秋十月大和に遊び、石上神宮(いそのかみじんぐう)に参拝して、有名なる神宝六叉鉾と称する異形の古武器を拝観することを得た。茎(くき)一つにして、左右に各三枝、都合六個の枝を生じて、切尖とともに七鋒をなしている。その切尖以外、六叉あるので、これを鉾(ほこ)と見立てて、六叉鉾の称を得たと察せられる。しかしこれが六叉鉾ではなく、七枝刀(ななつさやのたち)と称するものであることは、銘文に、「□陽造百錬□七支刀」とあるのであきらかである。 八坂瓊之曲玉考 一 緒言 二 タマという名称 三 マガタマという名称 四 琉球の女巫佩用の玉 五 今のいわゆる曲玉の古称 六 八坂瓊之曲玉という名称 七 結語 (略)本来タマなる名称は、孔を有して緒を通ずべき個々の物体そのもののことではなく、それはむしろ第二次的転用の名辞であって、当初はこれらの多くの個々の物体を、いわゆる「タマの緒」をもって連絡したものの名称であったと考える。古語にかかる連珠を、しばしば五百箇(いおつ)御統玉(みすまるのたま)、あるいは八坂瓊珠(やさかにのたま)などという。(略)「すまる」は「しめる」の義で、多数の有孔物体を、緒をもって締め連ねたものの称、また八坂瓊とは、八尺のタマで、その緒にとおした形の長きを呼んだ称である。しかしてそれをともに「タマ」と呼んでいるのである。 #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第20号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (440KB) 2008.11.29 第十九号 特集・考古学(四)喜田貞吉 本邦における一種の古代文明 ——銅鐸に関する管見—— 銅鐸民族研究の一断片 月末最終週・無料 p.144 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia(51項目)p.266 本邦における一種の古代文明 ——銅鐸に関する管見—— 自分はこの東海の楽土へ大陸から移民のあったのは、出雲民族や天孫種族や、任那(みまな)の王子蘇那曷叱知(そなかしち)渡来以来の韓人や、弓月君(ゆつきのきみ)、阿知使主(あちのおみ)以後のシナ人のみとは思わない。ずっとずっと前から、いくどにもいくどにも、この低気圧の好地を求めて渡来したものがあったであろうと考えている。(略)出雲民族のごときは畢竟その多くの渡来者中の優なるもので、大国主神が生太刀、生弓矢をもって荒振神達を平げ、出雲を中心とした国家を建設したのであったものと思う。 銅鐸民族研究の一断片 一 序言 二 天日槍伝説の再検討 三 気比神宮祭神問題 四 牛を殺して漢神を祭るの風習と銅鐸分布区域 五 結語 私の銅鐸秦人説はきわめて簡単なものである。わが歴史時代にはなはだ多数の族を有したかの秦人なるものは、古伝いうごとく応神天皇の御代に弓月君にしたがって渡来したものではなく、それよりもはるかに遠い以前、おそらく天孫民族のまだそう繁延せぬ以前において、朝鮮半島東南部なる後の新羅の地に住した秦韓人が、祖国の文化のあるものをたずさえてわれに大挙移民したものであり、新羅王子天日槍(あめのひぼこ)帰化の伝説はおそらくその事跡の片影を示すもので、それが畿内を中心とせる四近の地方にひろがって、問題の銅鐸を製作したのであったであろうというのである。 #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第19号 ※ ダウンロードを開始します。 (392KB) 2008.11.22 第十八号 特集・考古学(三) 喜田貞吉 日本石器時代の終末期について 「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」 ——日本石器時代終末期—— 定価:200円(税込) p.134 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia p.66 日本石器時代の終末期について 一 緒言 二 石器時代遺跡から宋銭発見の事実(一) 三 石器時代遺跡から宋銭発見の事実(二) 四 石器時代遺跡から鉄製品発見の事実 五 いわゆる土器の型式の編年的研究について 六 石鏃の脚の有無と石器時代の新古 七 弥生式と縄文式との年代的関係 八 結語 『ミネルヴア』創刊号の座談会記事は、近ごろ興味を持って読んだ有益な記事だった。しかして余輩がこれを見て第一感じたことは、近ごろの新進考古学者の中に、わが石器時代の実年代に関してわれわれ老人の思いもよらぬ見解があるということであった。 「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」——日本石器時代終末期—— 山内君はご自分達で組織せられたいわゆる「日本考古学の秩序」なるものによって、あいかわらず石器時代の文化状態は全国各地ほぼ並行し、その終末期もほぼ相似たものであるとの持説を固執せられて、それに都合のよくない余輩の提示した石鏃の脚有無の問題などは、まったく閑却に付せられているのである。しかしこの問題はたしかにわが石器時代文化のいちじるしい一現象なのだから、そう手軽に閑却してもらっては困る。 #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第18号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (276KB) 2008.11.15 第十七号 特集・考古学(二) 喜田貞吉 「遺物・遺蹟と歴史研究」 「日本における史前時代の歴史研究について」 「奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について」 定価:200円(税込) p.158 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia p.158 遺物・遺蹟と歴史研究 従来歴史家が史料としてとりあつかったところは、通例文字をもってその事跡を記録してある時代以降のことのみであった。なんら記録の徴すべきものなく、もっぱら遺物・遺跡のみによって当時の事跡を知るを得るというがごとき時代のことは、これをあげて考古学者に委任し、自家の研究範囲以外のこととして、かえりみなかった場合が多い。 日本における史前時代の歴史研究について 北見国からおそらく奈良朝時代のものと思われる蕨手刀(わらびてとう)が出た。しかしてそこには一方で土製の刀剣が模造されておった。日高国から室町時代のものと思われる腰刀が出た。しかしてそこにはなお石銛(もり)・石鏃(せきぞく)などが作られていた。陸中国からは先秦の刀貨が出たと言われ、羽後からは漢代の半両銭・五銖銭がぞくぞく発掘されている。近くは陸奥国是川村なる石器時代の遺跡から、種々の漆器や木製品が出土して学界の大問題をひきおこしている。かくのごとく一方には史前時代と、他方には有史時代とが、かすかながらに、あるえにしの糸で結びつけられているような現象も少なくはないのである。 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について さきに自分が本誌において、奥羽地方のアイヌ族がすでに先秦時代にさいして、大陸と交通したのではなかろうかというような、とっぴな説を担ぎ出すに至ったのは、主として津軽半島の北端に近い宇鉄から発見せられた石刀が、先秦時代のシナの刀貨と類似しているところにヒントを得たためであった。 #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第17号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (460KB) 2008.11.8 第十六号 特集・考古学(一) 喜田貞吉「考古学と古代史」 定価:200円(税込) p.139 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia p.91 私がわれわれの祖先の遺跡として最も興味をもって研究したいと思っておりますのは、すなわちこの神籠石のことであります。神籠石というものが学者によって注意されたのはごく新しいことで、私どもがその名を始めて聞いたのは明治三十二、三年(一八九九、一九〇〇)ころであったと信じております。それまでは多くの学者によってその存在すら認められておらなかった。昔の人はこれをもって城址である、神さまが戦争した城址であるというくらいの説明をしておったのでありまして、いっこう研究ができていない。じつは今日まで何人にもじゅうぶん研究されておらぬといってよいほどの状態にあるのであります。数年前からこの神籠石として知られておったものは四か所あって、いずれも福岡県下にかぎられている。 #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第16号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (312KB) 2008.11.1 第十五号 特集・蝦夷論(五) 喜田貞吉「奥州における御館藤原氏」 一 緒言 二 御館藤原氏の富強と王地押領の事実 三 御館藤原氏とその部下 四 頼朝奥州征伐の顛末 五 役後の処分 定価:200円(税込) p.164 / *99 出版 付録:別冊ミルクティー*Wikipedia p.440 奥州における藤原基衡・秀衡らが夷狄・匈奴として認められたことは、上文引ける公家の日記によっても明白な事実である。しからば彼らははたして俘囚すなわち熟蝦夷(にぎえみし)の種であったのであろうか。系図の伝うるところによれば、彼らは正しく田原藤太秀郷(ひでさと)の後裔であったという(略)西行法師が秀郷の後裔であることは、『吾妻鏡』(文治二年(一一八六)八月十五日条)に、彼の言として、「弓馬のことは在俗の当初愁に家風を伝うといえども、保延三年(一一三七)八月遁世之時、秀郷朝臣以来九代嫡家相承の兵法焼失す」とあるによってあきらかで、しかも同書に、「陸奥守秀衡入道は上人(西行)の一族なり」とあってみれば、当時すでに秀衡が秀郷の後裔であることが、認められていたに疑いはない。 #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第15号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (516KB) 2008.10.25 第十四号 特集・蝦夷論(四) 喜田貞吉「東人考」 一 緒言 二 東人という名、付毛人という名 三 従者または護衛の兵士などとして任ぜられたる東人の先例 四 聖武天皇が東人をもって組織し給いし禁衛隊とはなんぞ 五 太古における東国の住民と東人 六 東人と防人 七 東人と武士 八 東人の武勇 九 東人と文芸 毎月最終号・無料 p.590 / *99 出版 東人(あずまびと)とはその文字の示すがごとく、また称徳天皇のあきらかにおおせ給いしがごとく、諸の東国人なり。諸の東国人何がゆえに特に忠勇の名誉を有し、天皇の近き護(まも)りとして抜擢(ばってき)せらるるの栄をこうむりしか。また、そのいわゆる近き護りとして編成せられたる部隊とははたしていかなるものなりしか。(略)奈良朝は、すなわち東人が防人(さきもり)として徴発せられ、あるいは聖武天皇がこれをもって禁衛隊を組織し、とくにその忠勇を賞美し給いし時代なり。 #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第14号 ※ ダウンロードを開始します。 (484KB) 2008.10.18 第十三号 特集・蝦夷論(三) 喜田貞吉「夷俘・俘囚の考」 一 緒言 二 蝦夷と佐伯部 三 俘囚は夷種にあらずとの説 四 右の諸説に対する弁解 五 熟蝦夷と俘囚と渡党 六 麁蝦夷と夷俘、付夷俘・俘囚の語の混用 七 日の本蝦夷と唐子、付津軽およびカラフト名義考 定価:200円(税込) p.486 / *99 出版 藤原氏ほろびて後は、その鎌倉の治下にあるを喜ばざりしものは、北海道に渡りていわゆる渡党(わたりとう)となり、その内地に残留せしものはまったく邦人と融和混同して、ついには他よりもその異種なることを忘れられ、自己また夷の後裔たることを忘れ、ぜんぜん夷人としての存在を内地に失するに至りき。(略)夷俘とは(略)麁蝦夷にして、これに対する俘囚とは、蝦夷の熟蕃すなわち博徳のいわゆる熟蝦夷(にぎえみし)なり。 #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第13号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (408KB) 2008.10.11 第十二号 特集・蝦夷論(二) 喜田貞吉「日高見国の研究」 定価:200円(税込) p.188 / *99 出版 信太郡の地が異民族の日高見国であったといわれたことは、『常陸風土記』茨城郡の条に、昔この国に山の佐伯(さえき)、野の佐伯、すなわち山夷、野夷がいたとの古老伝を記し、また国内各地に佐伯すなわち蝦夷がいたとの逸話を伝えているのによっても知られるが、その中にも特にこの信太の地は、もと信太の流海と榎浦の流海との間にはさまれた丘陵地で、他とほとんど隔離せられ、狩猟、漁業の利がはなはだ多かったがために、他の地方の蝦夷がつとに日本化して、その民族的独立をうしなった後までも、ここにはひさしく固有の生活を継続し得て、ために隣人から夷狄の国、すなわち日高見の国として認められたのであったと解せられる。 #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第12号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (220KB) 2008.10.4 第十一号 特集・蝦夷論(一) 喜田貞吉 「東北民族研究序論」 「猪名部と佐伯部」 「吉野の国巣と国樔部」 定価:200円(税込) p.200 / *99 出版 東北民族研究序論 人口少なくして土地の比較的はなはだ広かった時代においては、ひとり先住民族を誘掖(ゆうえき)同化して、これを日本民族中に抱擁せんと努力したばかりでなく、これら帰化の人々をも歓迎したものであった。平安朝初期の『古語拾遺』には、当時諸蕃の数のはなはだ多かったことを述べて、「秦漢百済の民各万をもって数ふ、褒賞すべきに足れり」とある。その人口増殖を賞美すべしというのである。 猪名部と佐伯部 『和名抄』と申して、平安朝なかごろの源順という人のこしらえました字引きの国郡記事の部には、川辺郡に猪名郷というのがある、のちには猪名という名前は、川辺郡に保存されているようなことになっております。(略)佐伯部はそも何者であるか(略)わが先住民たる蝦夷人である。常陸国の一番古い地誌として伝わっている『常陸風土記』を見ると、昔山の佐伯、野の佐伯がおったとある。 吉野の国巣と国樔部 井光の地またこれを飯貝に求むべしとすれば、残るところはただ「記紀」その地点所在の順序を異にする国巣の地のみとなる。(略)『日本紀』に、応神天皇十九年十月、天皇吉野宮に行幸あり、このとき国樔人来朝して醴酒(れいしゅ)を献じ、歌を奏したとある(略)はじめて朝廷との間に縁故を生じ、いわゆる国栖奏として土毛(くにつもの)を献じ、風俗の歌舞を演ずるの例が始まったのである。 喜田貞吉 きた さだきち 1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3) 徳島県生まれ。歴史学者、文学博士。考古学、民俗学。 ◇参照:『国史大辞典』、Wikipedia #ref error :画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。 週刊ミルクティー*第11号 ※ ダウンロードサイトへジャンプします。 (212KB) 公開:2008.10.5 更新:2009.1.10 しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 カウンタ: - 著者名リストの整合性のため、姓名を半角スペースで分かち書きしていたのを修正。 -- しだ (2011-07-25 14 43 09) 名前 コメント
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災害の本だな 金華山や松島・・・ こもれびの、るるさんのリクエストにお答えしてみました。 金華山や松島・・・(三陸) 金華山 海嘯 松島 津波・津浪 aozora blog(2005年8月)より 2005.8.16正午前、地震 2005.8.17 同時多発震災 2005.8.21 同時多発震災 続 2005.8.23 『地域防災計画』インサート編 2005.8.27 特集レポート『地域防災計画』 2005.9.1 6年前、仙台沖地震(M7.2)の際の記録です。このときは大きな被害はなく、まだ無邪気にはしゃぐ余裕があったんですよね……。 震災・火山など MT*2_8-震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 MT*2_26-日本天変地異記 田中貢太郎 M-Tea*3_11-瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦 M-Tea*3_12-日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦 M-Tea*3_29-火山の話 今村明恒 今村明恒「火山の話」図版 M-Tea*3_35-地震の話(一)今村明恒 遺体の安置・埋葬、家畜の供養など MT*No.43-中山太郎 本朝変態葬礼史・死体と民俗 MT*2_45-火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉 M-Tea*3_4-獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎 M-Tea*3_5-鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉 これから季節が一転して、南寄りの春一番が吹く。夏には海風が奥羽山脈をこえて内陸部にフェーン現象をもたらす。北東からは冷風やませが吹き込む。 公開:2011.3.31 八面玲瓏。 更新:2011.4.6 目くそ鼻くそ。しだひろし/PoorBook G3'99 翻訳・朗読・転載は自由です。 (c) Copyright this work is public domain. カウンタ: - 4月4日のNHKニュースによれば、松島町は津波による倒壊や人的被害がほとんどなかったという。自然の地形、多くの島が防波堤になったことが、大きな被害をまぬがれることができた要因と考えられる……らしい。なるほど。松島の松島たる所以か。この夜、報道ステーションにて鎌倉大津波の特集、よし。 -- しだ (2011-04-06 12 15 06) 1943年9月10日は、(私が住む)鳥取で大地震が起きた日だそうです。震度6。関連した著作は目下まだ見当たらないのですが、気づいたら又メモしますね。 -- Juki (2013-09-12 07 22 30) あ、Juki さん、書き込みありがとうございまーす。山陰って、地震や火山噴火や津波災害の少ないような印象がありますが、さかのぼってみると、そうとばかりいえないみたいですね。 -- しだ (2013-10-04 18 43 46) 名前 コメント
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大元、八、二—四鎌倉、江ノ島 大元、八、一五—二〇鎌倉、韮山、修善寺、三島古墳、江川邸、長岡(歴史地理韮山夏期講演会) 大元、九、一八—一九熱田神宮参拝 大元、九、二一—二三南河内地方視察—津堂古墳、道明寺その他 大元、九、二四桃山御陵参拝(御宝壙御構造に関する技師の説明を承る) 大元、一〇、三—七阿波 大元、一〇、一三三井寺、梵釈寺址、大津宮址、崇福寺址 大元、一〇、一四—一九山陰地方踏査—湊村銅鐸発見地、中海反小船、松江、大社参拝、(両国造家訪問)、安国寺、竹矢、塩谷古墳、大念寺古墳、淀江古墳、石馬、大湊(橋井氏訪問) 大元、一一、二二楽荘(大谷光瑞氏将来品参観) 大元、一一、六奈良東大寺、新薬師寺その他、博物館 大元、一一、八奈良(正倉院拝観) 大元、一一、一六住吉、堺、久米田寺、附近古墳(京大国史科旅行) 大元、一一、二五東京拓殖博覧会 大元、一二、一九—二、一、三宮崎、鹿児島両県視察(西都原古墳発掘)—細島、都農、上江、宮崎、徴古館、蓮池横穴、三宅、西都原、青島、大隅国分、隼人城、鹿児島神宮、隼人塚、日当山温泉、磯島津邸、鹿児島、小倉、京都、興津、鎌倉 大二、三、二武蔵蓮沼惣持寺 大二、四、二一—二八江尻、興津、静岡、阿波 大二、六、二二吉見百穴 大二、七、二四—二五鎌倉 大二、七、三〇l八、五奈良(歴史地理夏期講演会) 大二、八、五—一三阿波讃岐行—小松島、徳島、高松、猫塚、石船塚その他、屋島(歴史地理夏期講演会)、多和文庫 大二、八、二二—二三鎌倉、田谷の穴 大二、一〇、一八—一九飛鳥、木殿、檜前、越、牽牛子塚、岩船その他(京大国史科学生指導) 大二、一〇、二二京都平安神宮時代祭行列 大二、一一、二東京帝大史料展覧会 大二、一一、八—九摂津多田院、満仲墓、箕尾、勝尾寺(京大読史会遠足) 大二、一一、一六高雄、神護寺、栂尾、高山寺、槇尾、梅ヶ畑 大二、一一、二二御所拝観 大二、一二、一一—一五阿波、芝生古墳その他 大二、一二、二九—三、一、六伊豆長岡温泉、石棺その他 大三、二、一洛北高野、小野毛人墓 大三、二、一〇京都史蹟会御所史料展覧会 大三、二、一五洛北八瀬、大原寂光院 大三、五、六—一〇阿波 大三、五、二二—二三河内瓢箪山、服部川千塚、生駒宝山寺、高安城址、信貴山、朝護孫子寺その他(今西・梅原両君同行) 大三、六、五—六信越廻り京都行—上田国分寺、富山、高岡、山代温泉 大三、八、三—一八京都、阿波(小松島講演) 大三、九、二四洛東白川窯址、勝軍地蔵その他 大三、一〇、八—二〇阿波行—(九日午前二時五分父死去) 大三、一〇、二七正倉院拝観、大阪明治紀念博覧会 大三、一二、一一—一四阿波行 大三、一二、三〇—四、一、一九宮崎、熊本、福岡三県視察—都城、小林、霧島東神社(天逆矛)、狭野神社、宮崎、高岡、本庄四十八塚、妻(波辺氏蔵品)、千畑、茶臼原、高鍋、延岡、俵野、大貫、南方(有馬氏)その他、高千穂、阿蘇、中通村その他古墳、武蔵温泉、福岡(中山氏訪問)、元寇紀念館、香椎、鹿毛馬神籠石 大四、三、四平安京大極殿址調査 大四、三、二二—二七阿波史蹟巡り—本庄、上八万、地蔵寺山、矢野、津田、論田、芝生その他古墳、国府、国分寺その他(田所君東道) 大四、三、二九近江和邇、上品寺、大塚山その他 大四、四、一銅駝坊考古館 大四、四、三東大史料展覧会 大四、五、一—二河内古墳視察—百済神社、禁野、太秦寺、石宝殿、国分、松岳山古墳その他、駒ヶ谷古墳群、観音塚、春日切石壙、山田村双子塚、お亀石その他(梅原君東道) 大四、五、九宇治、丸山塚、金色院その他 大四、五、一六木幡、宇治、岡屋二子陵、時平塚その他 大四、六、三美濃養老滝、大垣城 大四、六、一一—一六箱根 大四、七、二〇—三〇宮崎、鹿児島、福岡各地—宮崎(宮崎史料展覧会)、薩摩阿多、加世田、久留米日輪寺古墳 大四、八、九—二五奥羽、北海道視察—仙台国分寺、国分尼寺、平泉中尊寺(歴史地理夏期講演会)、衣川館、盛岡、厨川柵址、福岡、爾薩体、上斗米、青森、函館、附近遺蹟、余市、小樽、手宮、札幌、白老、室蘭、弘前、秋田、寺内秋田城址 大四、一〇、九—一一近江蒲生地方(蒲生史料展覧会)—石塔寺、鬼室集斯の墳その他 大四、一〇、一五日高アイヌ風俗視察(京都三条東山線) 大四、一〇、二四東京博物館(御即位に関する展覧、飛鳥発掘石人等) 大四、一一、一八大阪博物館(御大典紀念郷土史料展覧会)、堺(田中淳蔵氏訪問、発掘品を見る) 大四、一一、二一滋賀里、大津京址 大四、一一、二四—三〇徳島(史料展覧会)、川鳥(鋼鐸)、大阪、堺 大四、一二、三一—五、一、三箱根 大五、二、五—七河内八尾、和泉岸和田、摂津池田(大阪史蹟調査会) 大五、二、一二—一三近江穴太、辛崎、坂本 大五、三、一—二恭仁京址、信楽京址(本山彦一・岩井武俊両氏同行) 大五、三、七—二六鹿児島、宮崎両県視察—大阪(西村天囚氏訪問)、天満(天狗の爪石)、鹿児島、唐湊摩利子天塚、川内、新田八幡、石器時代遺蹟その他、了忍寺塔礎、吉野遺蹟等、上の原の穴(マンロー氏の土蜘蛛穴というもの)、山川(土器)、隼人塚四天王、垂水発掘土器、大隅国分寺、桜島、鹿屋(朝鮮人部落)、串良百塚(棒踊)、大崎村横瀬大塚、福島古墳群その他、本城、酒谷城、鵜戸神宮、宮崎徴古館(椎葉古銭)、本庄の土壙、繁根木塚、江田塚、宇土、豊田貝塚、熊本、千金甲古墳 大五、三、三〇—四、五阿波行—眉山、渋野、石井、板東、池谷(土御門天皇御火葬所)、堀江その他 大五、四、一六—一七豊橋(大林意備翁遺品)、豊川稲荷、菟足神社 大五、四、二三—二四四条畷(史料展覧会)、枚方(三松氏)、御殿山古墳、百済王神社、氷室池ノ坊、不動堂その他、王仁墓、禁野古墳その他 大五、五、二大阪、高津 大五、五、七近江石山、国分、保良、茶臼山、建部神社その他 大五、五、一四近江葦浦観音寺、守山、小篠原 大五、五、二二高槻、濃味天神、車塚、石川年足墓その他 大五、六、一—二近江息長、山津照神社、浜松、蜆塚、犀ヶ窪、有玉、欠下その他 大五、六、五南加瀬貝塚、品川(江見水蔭氏蔵品を見る) 大五、六、一〇—一二北陸廻り京都行—直江津城址、府中八幡、国分寺、小川温泉、福井、河和田(弥生式土器)、北庄城、足羽山、武生その他 大五、六、二四—二五和歌山—鳴神古墳、紀三井寺、和歌浦 大五、七、三一—八、六愛知県各地—豊橋(歴史地理夏期講演会)、小坂井、豊川、一ノ宮、(浜松)、名古屋、熱田高倉(貝塚調査) 大五、八、一八—二四山陰各地—城崎、香住(大乗寺)、東郷、淀江、大社参拝、大根島(風穴)、松江城、米子、大庭、四王寺、八重垣神社、神魂神社、大庭附近古墳、大草、玉造その他 大五、九、一六横浜(中学校蔵考古品視察)、岡野公園(発掘品視察) 大五、九、三〇神戸 大五、一〇、一—二河内富田林(大阪府史蹟調査会史料展覧会)、堺 大五、一〇、一七正倉院拝観 大五、一〇、一九—二一阿波小松島、徳島、鴨島、飯尾 大五、一〇、二二—二三神戸(福原潜次郎氏蔵品視察) 大五、一〇、二八横浜 大五、一〇、三一品川(江見水蔭氏蔵品を見る) 大五、一一、一〇—一三大阪、河内、国府、道明寺、安福寺、平尾山その他 大五、一一、一八西ノ宮(郷土史料展覧)、六甲苦楽園、打出親王寺、兵庫史蹟 大五、一一、一九—二〇神戸兵庫史蹟(福原氏東道) 大五、一二、二九—六、一、九興津(海岸にて川面凡児氏主宰禊行事視察) 大六、一、二〇堺(前田長三郎氏、鹿島円次郎氏蔵品を見る) 大六、一、二二岡山 大六、一、三一堺、妙国寺その他 大六、二、一八神戸 大六、三、三〇静岡、浅間神社、小鹿古墳、清水山公園古墳その他 大六、四、五堺 大六、四、一六大阪長柄地方踏査—中島総社、鶴満寺、国分寺、豊崎神社その他 大六、四、二一伊勢参宮(京大学友会遠足)、鳥羽、松坂(本居翁旧宅)、徴古館 大六、四、二六—五、五阿波、讃岐、備前、備中各地—(田所市太氏東道)池ノ谷(宮田氏)、大寺、石塚、金泉寺(長慶陵伝説地)、檜村その他、(讃岐)—高松、長尾、(福家惣衛・大西行礼両氏東道)高松市外稲荷山石塚、姫塚、石舟塚、猫塚その他、(岡山)—(永山卯三郎氏東道)備中吉備津神社、備前吉備津彦神社、成親塚、吉備津彦墓、加茂造山古墳(六嘉式石室塚)、蝙蝠塚、尼寺址、国分寺、三須作山、箭田大塚、吉備寺、大塚、呉妹村、穴門山神社、吉備公館址、吉備公夫人古冢址、後楽国その他 大六、五、一二山城向日町、長岡京址 大六、六、六河内国府石器時代遺蹟発掘、喜志 大六、六、八大阪(北区冷雲院) 大六、六、一〇興津、東京 大六、六、二一—七、一四福岡、宮崎、鹿児島各地—筑前福岡図書館蔵遺物(中山平次郎氏)、怡土城址、高祖城、主船司神社(木下讃太郎氏東道)、(日向)—宮崎徴古館、下北方古墳、柏田横穴、同貝塚、船塚、岩戸神社、綾、清武、小林地下式壙、その他(若山甲造氏東道)、(薩摩)—鹿児島史蹟、谷山村、その他(以上山崎五十麿氏東道)、志布志、大崎、岡崎地下式壙、石棺、石剣等、西串良、岡崎古墳(以上瀬之口伝九郎氏東道)、吉田 大六、八、一浜寺(本山氏蒐集品を見る) 大六、八、二—四神戸(歴史地理夏期講演会)、各地史蹟 大六、八、五—七伯耆米子(歴史地理夏期講演会)、淀江(養良校蔵品を見る) 大六、九、二—九鎌倉 大六、九、一七—一九興津、浜名湖、摩訶耶寺、本坂(橘逸勢の霊鏡と称する漢鏡) 大六、一〇、四—五河内国府発掘視察、道明寺天満宮、高井田横穴、国府(人骨、※[#「王+決のつくり」、第3水準1-87-87]状耳飾、国府銅鏃) 大六、一〇、一六—二七阿波、讃岐、備前、播磨各地、(阿波)—石井、国府(近藤辰郎氏石器)、撫養、(讃岐)—高松(鹿角製剣頭)、一の谷、本山(荻田元広氏蒐集品を見る)、金倉西教寺、(備前)—岡山(六高訪問)、(播磨)—石宝殿、垂水海神社(山崎氏蔵、石器・玉類を見る) 大六、一〇、二五奈良 大六、一一、三正倉院拝観、玉井骨董店、関依水園 大六、一一、八石清水八幡宮参拝 大六、一一、二二奈良、博物館(大黒めぐり) 大六、一一、二四—二五大阪、奈良(大黒めぐり) 大六、一一、二八—二九堺、大阪(小林林之助氏訪問、大黒調査)、今宮戎神社 大六、一二、三大阪 大六、一二、五大阪、奈良(美術院新納氏訪問) 大六、一二、二四—七、一、一四大分、宮崎、鹿児島三県各地—(豊後)—別府(日名子氏)、明治村貝殻天神(豊州新報社蔵品を見る)、大分附近石仏、同横穴、永興古墳、王野瀬古墳(広瀬宰資氏東道)、西国東地方鹿垣踏査、蓮城寺、(河野清実氏東道)、臼杵、シャア部落、深田満月寺址、石仏、古市、八幡村円山、佐伯、(日向)—延岡、大貫貝塚等(有馬氏)、都農神社、高鍋、宮崎、(大塚タコタン部落調査)、宮崎徴古館、佐土原(ビュー部落調査)、(薩摩)—鹿児島(太鼓踊、棒踊)、揖宿、摺ヶ浜、柴立温泉、宮ヶ浜、鹿児島図書館土器、山崎五十麿氏蔵品、大隅鹿屋、横山遺蹟、壺屋(朝鮮人部落) 大七、一、二三下総銚子 大七、一、二六興津 大七、二、九二楽荘、久原氏石器時代遺物(佐藤蔀翁蒐集品を見る)、住吉、奈良 大七、二、二四—三、四阿波(蜂須賀侯葬儀その他) 大七、三、二八興津 大七、四、一八—二〇河内国府遺蹟発掘状況視察 大七、四、二七奈良 大七、四、二八河内国府遺蹟視察 大七、五、五奈良、河内高井田横穴、河内国府 大七、五、一一奈良、郡山、洞泉寺湯船、南葛城吐田郷銅鐸銅鏡伴出地調査 大七、五、一五興津、長者山古墳 大七、五、一九考古学会総会展覧(松浦武四郎旧蔵鍬先その他) 大七、五、二五飛鳥地方史蹟(大阪クラブ連中案内) 大七、六、二九—七、七丹波柏原(沼貫百塚出土品、鍍金鏃その他)、神戸(福原氏)、阿波 大七、七、二四—二九出雲地方踏査—安来、十神山古墳その他、今市(講習)、大念寺その他古墳、大社参拝(千家・北島両国造家訪問)、知井宮横穴その他 大七、七、三〇—八、一〇下関、赤間宮参拝、福岡(中山氏)、阿蘇内牧 (歴史地理夏期講演会)、熊本明麗館、豊前香春、夏吉古墳、河内王墓、大阪、堺 大七、八、一三—二〇北陸、会津各地—金沢(歴史地理夏期講演会)、尾山城、兼六園、越中氷見、朝日貝塚、大境洞窟、越後長岡、新潟(山中樵氏蔵品を見る)、—会津若松(歴史地理夏期講演会)、(米騒動)、(斎藤惣三郎氏蔵品を見る)、会津図書館、東山温泉 大七、八、二五—九、一興津(古墳出土土器、銅釧等) 大七、九、一三—一五遠江中泉(太田孫十郎氏蔵品を見る)、貝塚、遠江国府、国分寺、三河刈谷、名古屋 大七、一〇、三—四大和三島(天理教本庁)、(二階堂石棒、三島石棒、萩原氏蔵異形大石刀その他遺物を見る)、石上神宮参拝(七枝刀その他宝物拝観)、山辺地方古墳 大七、一〇、一一浜寺(本山彦一氏蔵品を見る) 大七、一〇、一六大坂 大七、一〇、三一—一一、五阿波脇町(笠井新也氏訪問) 大七、一一、一六正倉院拝観、佐紀村(猫塚その他踏査) 大七、一一、二九伏見桃山 大七、一二、二六東京博物館(埴輪調査) 大七、一二、三一—八、一、六興津 大八、二、二神戸 大八、二、一六兵庫 大八、二、二三東京築地本願寺(同情融和会) 大八、三、六京都柳原部落視察(明石民蔵氏訪問) 大八、三、一一京都野口部落視察(南梅吉氏訪問) 大八、三、一六山崎天王山、宝寺 大八、三、二一—二四阿波中の島、立善寺、富岡 大八、四、一六—一八北陸廻り金沢経由京都行 大八、四、二〇—二一奈良西坂(松井氏訪問)、河内道明寺、国府遺蹟発掘、土師神社(金剛能を見る) 大八、四、二五京都田中部落視察(松浦慶之助・松下清三郎両氏訪問) 大八、四、二六京都田中干菜寺、柳原(唐滝庄三郎氏訪問)、七条裏 大八、五、二高岸部落視察(明照寺) 大八、五、七東三条寺裏(吉田卯平氏訪問) 大八、五、八—九大阪(国学院)、河内太田(柏原仁兵行氏訪問)、奈良 大八、六、一五京都東寺 大八、六、一六大阪、神戸 大八、七、二二—二四福山(歴史地理講演会)、福山城、鞆津、安国寺、松永 大八、八、三—八遠江川崎、相良平田寺、相良大久保部落 大八、九、六下総成田、銚子 大八、九、二七大阪 大八、九、二八近江五箇庄(藤井善助氏) 大八、一〇、三—五備中津雲(松枝惣十郎氏訪問)、備後福山、鞆津、田島 大八、一〇、九—一三阿波、三谷、飯尾(呉郷文庫)、小松島 大八、一〇、二〇大和高田 大八、一〇、二三信濃木曾、辰野、善光寺、上伊那(郡内史料展覧会) 大九、一、四—八箱根堂ヶ島 大九、二、二八—二九奈良、五条、栄山寺 大九、三、二九—四、三阿波論田、小松島、飯尾その他 大九、四、二五嵯峨(花の寺) 大九、五、六神戸行(条里調査)、来迎寺、駒ヶ林、夢野古墳その他 大九、五、二二—六、一〇朝鮮、満洲行(奉天図書館大会)—神戸(史料展覧会)、釜山、東莱温泉、釜山鎮、京城、奉天、金州、旅順(博物館)、大連、奉天(皇宮、北陵)、平壌、開城(文廟、妓生学校、箕子墓、牡丹台その他、満月台、顕陵、汗蒸その他)、京城(景徳宮、総督府博物館、李王職博物館その他)、釜山 大九、七、五(京都帝国大学教授任官) 大九、八、六—一三福井県各地—越前芦原温泉、金津、福井、三国港、東尋坊、若狭耳村、河原市その他 大九、九、一京都より東京行(興津泊) 大九、一〇、一七醍醐(山科)、大津 大九、一〇、二〇—二五因幡浜村温泉、青谷 大九、一一、四—八信濃国分寺、上田城、長野、越中泊温泉、入善町 大九、一一、一七正倉院拝観 大九、一二、七—一一阿波鴨嶋、神戸(須磨寺、現光寺) 大九、一二、一二大和五条 大一〇、三、一三近江長浜 大一〇、三、一四—一九鳥取、島根両県各地—鳥取、淀江、玉造、大社(千家・北島両男爵、千家管長訪問) 大一〇、三、二一浜寺 大一〇、四、一六—二一奈良、高野、和歌山(図書館大会)—奈良(鹿寄せ)、平城宮址、法隆寺、高野(谷の者)(宝寿院蔵書)、端場、和歌山、和歌浦、淡輪 大一〇、五、一〇—一六阿波丈六寺、論田、兵庫 大一〇、五、二一—二二淡路、福浦、鳴門、淳仁陵、沼島 大一〇、六、五飛鳥、安倍文珠(帰路宇治県祭を見る) 大一〇、七、二七—八、一周防三田尻地方視察、松崎神社、柔の山古墳、国分寺、惣社、国府址、琳聖太子古墳、車塚その他 大一〇、八、七—九千葉、飯野内裏塚、九条塚その他 大一〇、九、※[#判読不明]大和檜前地方、菖蒲池古墳、鬼の厠俎、大内陵、欽明陵、石人、越塚、牽牛子塚、岩船、五条野丸山 大一〇、一〇、二大和忍坂、倉梯 大一〇、一〇、一三三河刈谷 大一〇、一〇、二二—二四三河刈谷、挙母、上伊保簓部落調査 大一〇、一一、一一正倉院拝観 大一〇、一一、一八京都歌舞練場(熊野田楽を見る) 大一〇、一一、二〇大和南葛城各所 大一〇、一一、二三浜寺(本山氏蔵品展覧) 大一〇、一二、一七大阪、兵庫 大一一、一、二二六甲苦楽園 大一一、二、一八神戸 大一一、三、二〇—四、一五阿波 大一一、四、一九—二七阿波(四月二十一日母死去) 大一一、五、三一大和南葛城地方(西松本国造墓というもの、地光寺礎石その他、八木町森田氏蔵品を見る) 大一一、六、二六大阪、堺、神戸 大一一、七、一八京都より東京へ、興津泊 大一一、九、三—一三阿波池田、三庄村磐境、お花大明神その他 大一一、九、一七奈良(今西伊之吉氏葬儀) 大一一、一〇、一大阪(豊崎) 大一一、一〇、二三—二四宮津、天橋立(京大文科遠足) 大一一、一〇、二九伊勢津、愛宕山麓石棺、贄崎四天王寺 大一一、一一、四飛鳥(京大学生指導) 大一一、一一、一一大津 大一一、一一、一九—二八山形、宮城、両県視察—庄内地方(阿部正己氏東道)、藤島、酒田(夷浄福寺)、本楯、吹浦その他、陸前桃生地方(斎藤荘次郎氏東道)、中山柵、北村、前谷地(斎藤養次郎氏蔵品を見る)、日高見神社、飯野川町、高道墓その他 大一一、一二、二一—二五阿波穴吹、中田 大一二、一、二七—二八大和御所町 大一二、二、一三京都歌舞練場(宇和島鹿の子踊を見る) 大一二、二、一八明石、唐櫃 大一二、三、五近江瀬田蜆塚視察 大一二、三、一一大和高田(史料展覧会) 大一二、三、二七—三一仙北、山形踏査—初春の深雪、雪の金沢柵(深沢多市氏東道)、雪橇の初乗、飯詰(江畑新之助氏訪問)、—山形、山形城、泰安寺址 大一二、四、三—七阿波穴吹、中田古墳 大一二、四、七大阪(三越敷地発掘品調査) 大一二、四、二七京都神泉苑(狂言) 大一二、四、二九大和南葛城地方史蹟踏査 大一二、五、二〇松浦伯家宝拝見(考古学大会) 大一二、六、一〇明石 大一二、七、四—二四奥羽、北海道方面視察—(山形県)鶴岡、大山、清川、立谷沢、砂越、松嶺、本楯、(秋田県)大曲、秋田、土崎、寺内秋田城、古四王社、四王寺址、(青森県)弘前、青森、(北海道)函館(図書館)、小樽、札幌、佐瑠太、ビタルバ、静内、平取、白老、(青森県)八戸(泉山氏蔵品を見る)、(岩手県)福岡、一方井、中尊寺その他 大一二、七、二九—三〇相模厚木、国分寺址その他、妻田 大一二、八、五—九和歌山県—高野山、東谷調査、粉河寺、和歌山市、岡町 大一二、八、一〇—一三阿波徳島、飯尾、小松島その他 大一二、八、一六—一九伊勢津市 大一二、八、二八九段遊就館(田村麿鍬形その他調査) 大一二、九、一—四東京各地地震状況視察 大一二、九、一八鎌倉震災視察 大一二、九、一九横浜震災視察 大一二、九、二三堺(宝珠院その他) 大一二、一〇、二七—三〇淡路洲本(松帆村銅鐸その他)、市村、三条(人形芝居調査)、成相国分寺その他 大一二、一二、二—四広島泉邸、観古館その他 大一二、一二、七—一二佐賀、鹿島、誕生院その他 大一三、一、一六津市 大一三、一、二六—二七奈良十八間戸、地獄谷その他 大一三、二、二二信濃上田市、別所温泉、北向山安楽寺その他 大一三、三、一五大阪味原円珠庵、比売語曾神社、四天王寺等 大一三、三、一七—二三能登七尾、和倉温泉、輪島、海士町、金沢市、那谷寺、法皇山その他 大一三、三、二六—二七武蔵熊谷 大一三、四、二—五阿波脇町、徳島、飯尾 大一三、四、一九尼崎、大阪 大一三、五、一七東京松平子爵邸(大塚)家宝拝見 大一三、六、一五—一六奈良、木津、田辺 大一三、六、二八浜寺(山川氏訪問) 大一三、七、二—二二朝鮮(山陰経由)—淀江、米子、皆生温泉、下関、釜山、京城、景福宮、社稷壇、中枢院、総督府博物館、図書館、李王職博物館、奎章閣その他、驪州、江漢祠、神勒寺、南漢山城、寧陵その他、水原、公州、扶余、大唐平百済碑その他、慶州博物館、仏国寺石窟庵その他、大邱、釜山 大一三、七、二三—二五熊本、井寺その他 大一三、八、一—三茅ヶ崎、厚木、海老名、妻田 大一三、八、六—一二阿波平島、小松島その他 大一三、八、一三—一四讃岐観音寺、笠岡その他 大一三、八、一四—一七尾道、西国寺その他 大一三、九、五—九福知山、宮津、天橋立、籠神社、国分寺址その他 大一三、九、一〇—一五福山、広島、三次 大一三、九、二〇(東北帝国大学講師嘱託) 大一三、九、二三仙台 大一三、九、二七(京都帝国大学教授辞任) 大一三、一〇、七—一〇羽前庄内、藤島、仙北、飯詰山、金沢柵、祇園寺その他 大一三、一〇、一七—一九別府、春日浦(安部甚三郎氏)、旭町 大一三、一〇、二三伊予松山、石手寺、道後温泉その他 大一三、一一、一陸前閖上浜 大一三、一一、六—七岐阜、加納城その他 大一三、一一、九河内古墳視察 大一三、一一、一六宇都宮 大一三、一一、二九—三一長野善光寺、名古屋 大一三、一二、一三—一四岩代郡山、茶臼館、如宝寺その他 大一三、一二、二五熱田神宮参拝 大一四、一、一四—一五豊橋、小坂井(銅鐸調査)、国分寺、菟足神社その他 大一四、二、一五—一八豊橋鬼祭見物その他 大一四、二、二六—二八前橋、世良田、武蔵石塚 大一四、三、四—五播磨佐用 大一四、三、一七陸前前谷地 大一四、三、一八—一九庄内、盛岡 大一四、三、二〇—二一陸前岩出山、東陽寺その他 大一四、三、二七—三〇紀伊田辺、鉛山、白浜温泉、和歌山 大一四、四、一(再び京都帝国大学講師嘱託、東北大学兼勤) 大一四、四、三河内誉田その他 大一四、四、二二大阪市外岡町 大一四、四、二六奈良博物館(正倉院裂展観) 大一四、四、二六—二七紀伊高野口 大一四、五、一—四陸中平泉(清衡八百年祭紀念展覧会)、中尊寺、毛越寺、衣川柵その他、鵜木館、花巻その也 大一四、五、三一—六、一仙台史料展覧会、多賀城、国分寺、瑞鳳殿、大崎八幡、燕沢碑その他 大一四、六、二—五盛岡、千曳、青森、弘前、大鰐温泉、秋田、仙北その他 大一四、七、九—二〇岩手、青森、秋田三県視察—水沢(青木・鈴木両氏蔵品を見る)、江刺、根岸洞窟、七戸、貝塚、二ツ森、野辺地、青森、外ヶ浜、三厩、宇鉄、中師、秋田、鳥海柵、胆沢城址 大一四、八、四—五越中福野 大一四、八、八—一〇岩手県各地—花巻、江刺(岩谷堂)(江刺郡史料展覧会)、宮野目館その他 大一四、八、一一—二三青森、秋田、山形三県各地—八戸、是川村、小中野、鮫、青森、弘前、秋田、大曲、吹浦、遊佐、松嶺、酒田 大一四、八、二六—三〇紀伊御坊、南部、道成寺その他、和歌山、大阪 大一四、九、二七陸中一ノ関(沓沢氏訪問)、厳美渓、宅谷窟、平泉、中尊寺、毛越寺その他 大一四、九、二八—三〇陸前築館、城生野(伊治城址)、宮野、沢辺、岩ヶ崎、営岡その他 大一四、一〇、一八—一九岩代郡山、福島 大一四、一〇、一九—二一山形、寒河江 大一四、一〇、二四—二八青森(佐藤蔀氏訪問)、野辺地、有戸、田名部、下北半島北岸(大間まで)、恐山その他 大一四、一〇、二九—三一鷹巣、藤株、麻生、七座その他 大一四、一一、一—四郡山、会津、一箕山、旧流民収容処その他 大一四、一一、一五—一六会津袋原、郡山 大一四、一一、一七—一八新潟、図書館(高橋義彦氏訪問)、沼垂その他 大一四、一一、二一—二三鷹巣、藤株(山本・嵯峨両氏同行) 大一四、一一、二四—二六青森、八戸、是川、小中野 大一四、一一、二八福島 大一四、一二、一二—二一岩手、青森二県各地—盛岡、安倍館、天昌寺館その他、福岡(国香氏訪問)、爾薩体その他、青森、弘前、浪岡、黒石、鷹巣、秋田(真崎勇助氏遺品展覧)、青森(佐藤蔀氏蔵品写真撮影)、八戸(泉山氏訪問) 大一四、一二、三一—一五、一、三阿波下八万、徳島 大一五、一、四—六大阪、浜寺、二楽荘(本山彦一氏同行、蔵品写真撮影) 大一五、一、一二東大人類学教室蔵品写真撮影 大一五、一、一七前谷地、斎藤氏宝※[#小さいガ]峯(東北大学学生指導) 大一五、一、二八—二九浜松 大一五、一、三一六甲甲陽園 大一五、二、四—五富山(早川氏蔵品を見る) 大一五、二、六—九羽前藤島、羽後鷹巣、青森、八戸 大一五、二、一四長浜(下郷氏鐘秀館) 大一五、二、一六—二〇佐賀、甘南備山、都々城原古墳発掘品、実相院、佐賀城その他、長崎 大一五、二、二四—二五岡山、国清寺その他 大一五、二、二六—二七舞鶴城址その他 大一五、二、二八—三、一山口、湯田温泉その他 大一五、三、四—五宇都宮浄隆寺、二荒山神社 大一五、三、九—一一和歌山、野崎総持寺 大一五、三、二八—三〇広島、泉邸、観古館、比治山公園、呉 大一五、四、一—二阿波 大一五、四、六奈良、法隆寺(塔心柱礎調査)、法起寺、法輪寺その他 大一五、四、一八丹波和田山 大一五、四、一九大阪(水平社講演) 大一五、四、二五二楽荘(石器時代遺物を見る) 大一五、四、二六—二七淀江徴古館、松江、熊野神社その他 大一五、五、一八—二八青森(佐藤蔀氏蔵品を見る)、北海道函館(図書館蔵品写真撮影)、樽岸、札幌、旭川(近文コタン)、中央小学校蔵品、(十勝岳爆破)、下富良野、山津波現場視察、白老、室蘭 大一五、七、一〇—一六盛岡、一戸、金田一、舌崎遺蹟調査、青森、内潟、今泉、相内、十三(安東氏遺蹟調査)、亀岡、五所河原、森田、床舞(山本助手および次男新六同行) 大一五、七、一八—一九酒田、藤島(沓沢氏訪問、蝦夷年表紛失) 大一五、七、二〇越後高田、斐太、菅原古墳(村役場蔵品を見る) 大一五、七、二一—二二大阪、打出、神戸 大一五、八、二—七陸中花巻、徳田、藤島蝦夷森、日詰城山、志波城址、見前(宮崎文庫)その他、盛岡 大一五、八、八—二四八戸、根城、青森、函館、朝里、札幌(札幌博覧会歴史館)、札幌神社、厚別、白老、室蘭、青森、七戸、倉岡、八幡新館その他 大一五、八、二六—二七郡山、三春(秋田子爵家宝文書等閲覧) 大一五、九、四大阪、石清水八幡 大一五、九、一一—一二三春(秋田家史料調査)、真照寺、郡山、如宝寺、福島、飯坂温泉 大一五、九、二四—一〇、三盛岡、太田方八町、大宮社、大坊氏樺太土器撮影、米内館、青森、内潟、尾別、福島城址、相内、弘前、機織 大一五、一〇、三—八仙台 大一五、一〇、九—一二鳴子、岩谷堂(小田島氏蔵品を見る)、平泉、花巻 大一五、一〇、二二—一一、一秋田、青森二県各地—横手城址、大森、秋田、寺内、豊岩村(武藤一郎氏訪問)、浪岡城址、御廟館、弘前、青森 大一五、一一、九正倉院拝観 大一五、一一、二六—三〇庄内、酒田、光丘文庫、山形、郷土博物館 昭二、一、八—一二阿波、神戸、大阪 昭二、三、七多摩陵参拝、八王子(史談会蔵品展覧)、高尾山薬王院 昭二、三、二一石巻(遠藤・毛利両氏蔵品撮影、山本・嵯峨二氏同行) 昭二、三、二三福島 昭二、四、二三—二六陸中日詰、古館(住宅址調査)、台温泉、花巻、胡四王神社、水沢 昭二、五、一—三下野足利鑁阿寺、栃木、国分寺、薬師寺、宇都宮(栃木師範蔵品を見る) 昭二、五、六—九高田、春日山、斐太、浄興寺、糸魚川、長者原遺物調査その他、日出谷 昭二、五、一〇—一一富山、高岡、氷見 昭二、五、一三—一四大和榛原、初瀬、室生寺、三本松 昭二、五、二〇—二一羽後横手、秋田、鷹巣、藤株(山本氏発掘) 昭二、五、二二—二四酒田、新庄、戸沢氏城址、接引寺(台湾石器を見る)、(常葉氏訪問) 昭二、五、二七—三一陸中花巻城址、瀬川館、金矢館、内館、大畑館、日詰、二子 昭二、六、七陸前塩竈、松島 昭二、六、一八—二二花巻、小鳥崎館、盛岡(盛岡史料展覧会、嵯峨氏同行)、日詰、黒沢尻、二子 昭二、七、一三京都(貔子窩遺物閲覧) 昭二、七、二二—八、三北海道視察—青森、室蘭、登別、白老、札幌、旭川、上川、層雲峡 昭二、八、四陸中平泉、中尊寺 昭二、八、九—一七九州各地—肥後人吉横穴、鹿児島(山崎氏蔵品その他)、宮崎、妻研究所、延岡、天下、別府(日名子氏蔵品を見る) 昭二、八、二八—二九磐城新地、秋保温泉 昭二、九、一九—二〇陸中古館、花巻 昭二、一〇、一奈良(元興寺塔礎発掘品調査その他)、大阪、三島、富田その他 昭二、一〇、四岩代厚樫山、福島、その他 昭二、一〇、七—八山形(史料展覧会) 昭二、一〇、九—一一庄内、羽黒(手向)、藤島、福島 昭二、一〇、二二—二三陸前岩出山、東陽寺、丸山館、浄泉院、大崎城址 昭二、一〇、三〇—一一、一陸前桃生城址、石巻、湊、蛇田、沼津貝塚 昭二、一一、五—七新潟、長岡、高田、潟町、塔ヶ崎 昭二、一一、二三摂津三島、継体陵その他(京大学生指導) 昭二、一二、九奈良、大阪 昭二、一二、一〇摂津打出、奈良春日神社その他 昭二、一二、二五—二七陸前秋保温泉 昭三、一、二—一七陸前秋保温泉 昭三、二、二—一二宮崎、大分二県視察—宮崎、徴古館、本庄古墳、延岡、南方その他、別府 昭三、三、二一陸前亘理、鹿島 昭三、三、二九—三〇箱根温泉 昭三、四、一—五阿波、飯尾その他 昭三、四(仙台博覧会東北史料展覧会) 昭三、四、二五陸前塩竈 昭三、五、五—七羽後角館、生保内、田沢湖その他 昭三、五、一四—一五奈良、西大寺、佐紀(平城宮濠中発掘品調査) 昭三、五、一五—一六大和榛原、足立、篠楽、初瀬、小川、国樔、吉野宮滝その他 昭三、五、一七明石、垂水 昭三、七、二六—八、三佐渡、夷、新穂、真野、西三川、小木、畑野、加茂その他、新潟、長沢、五十嵐神社その他、高田、新井 昭三、八、七大阪、天王寺(石棺蓋)、神戸 昭三、八、一五岩代郡山 昭三、八、一八—二〇山形(郷土博物館)、鶴岡(庄内史料展覧会)、湯ノ浜、酒田、光丘文庫 昭三、八、二一—二七秋田、弘前、藤崎、黒石(佐藤雨山氏訪問)、大光寺、青森、小湊(古代住宅)、七戸、八戸、花巻 昭三、八、二九羽前五色温泉 昭三、九、一一—一二羽前五色温泉 昭三、九、二二—二六陸前秋保温泉 昭三、一〇、一熱田 昭三、一〇、二六奈良(正倉院拝観、平城宮濠中発掘品再調査) 昭三、一〇、二八二楽荘(山本氏同行) 昭三、一〇、二九—三〇越後高田(師範学校史料展覧) 昭三、一〇、三〇武蔵石塚 昭三、一一、一九—二〇陸前秋保温泉 昭三、一二、五—六神戸、大阪 昭四、三、三〇—四、一山口県各地—厚狭、山口、福川、田布施、平生 昭四、四、二—四阿波飯尾その他 昭四、四、一五—二一陸奥八戸、是川村(大山史前学会発掘) 昭四、四、二八陸前塩竈 昭四、八、八和泉牛滝 昭四、八、二三比叡山延暦寺 昭四、一〇、一五—二一青森、秋田、山形三県—八戸、是川村、鮫(以上杉山氏同行)、七戸、獣疫研究所敷地竪穴その他、青森、浪岡、弘前、大鰐、秋田、松嶺 昭四、一一、一正倉院拝観、東大寺南大門附近発掘品 昭四、一一、二—一二宮崎、富高、伊勢浜、国富、延岡、大峡、高千穂、岩戸、田原、河内、小河内石塚、熊本、福岡(中山氏訪問)、甕ノ尾(合せ甕墳墓)、太宰府 昭五、三、一五奈良、春日田植祭 昭五、三、二七—四、四京阪地方見学(東北大学学生指導)—西宮辰馬氏蔵品、浜寺本山氏蔵品、河内各所、大和、奈良、飛鳥その他、京都御所離宮拝観、藤井善助氏蔵品、西本願寺その他 昭五、四、五—七阿波 昭五、四、二四—二八岩手、秋田、山形三県—陸中時田館、蛭川館、蟹沢館、古館その他、羽後払田柵、横手、愛宕山館、大鳥居館、子吉山石櫃、石神その他、松嶺、大山石棺、尾浦城址木柵、善法寺その他 昭五、四、二八陸前古川、三本木八阪社穴、桑折館、蟻の袋蝦夷穴その他 昭五、五、五(仙台浴室にて顛倒、肋膜炎、肺炎を起し約四ヵ月就褥) 昭五、一〇、二—四京都、黒谷その他 昭五、一〇、五西宮(松原神社)、打出、魚崎 昭五、一二、三一—六、一、四伊勢参宮、朝熊登山その他 昭六、一、七浜寺 昭六、一、一一吉野宮滝 昭六、三、一七—一九鹿島、水戸、常盤村長者屋敷その他 昭六、四、七—一三青森、秋田二県—是川村、青森、弘前、秋田、八森、檜山、払田柵、藤木村、六郷、石名館、横手、金沢 昭六、五、二大津京址、三井寺 昭六、五、三大阪、天王寺その他 昭六、五、二三—六、二羽後本楯柵、横手、角館、土川、陸中一戸、宮古、陸前一迫、真坂 昭六、六、二一石巻 昭六、七、五鵠沼 昭六、七、一四—二九《(ママ)》北海道各地—函館、小樽(博覧会)、札幌(博覧会)、旭川、名寄、遠軽、網走、川湯、クッチャロ、釧路、厚岸、根室、帯広、佐瑠太、平取、白老、登別、室蘭 昭六、七、二六《(ママ)》—二九陸前秋保温泉 昭六、八、七—八大阪、神戸、浜寺、打出 昭六、九、一六—二八陸前秋保温泉 昭六、九、二九—一〇、四越後高田、信濃桑名川、若狭羽賀寺、京都 昭六、一〇、一五—一八中尊寺、北海道(江別古墳) 昭六、一〇、一九—二四阿波(十月十七日兄死去) 昭六、一一、六—一六青森、秋田、山形三県—津軽(黒石、山形)、矢島、本楯、渡前、鶴岡、大山、黒川(宝※[#小さいガ]谷)、湯田川 昭六、一一、二一—一二、一〇越前敦賀、若狭羽賀寺、丹波綾部、摂津有馬 昭六、一二、二三—七、一、一〇陸前秋保温泉 昭七、二、二八—三、八陸前秋保温泉 昭七、四、四—七阿波(櫛淵風呂ノ谷)、その他 昭七、四、一二京都(中外座談会) 昭七、四、一六京都(還暦記念会) 昭七、四、二〇奈良(正倉院御物裂展観) 昭七、七、三多摩陵参拝、高尾登山 昭七、七、一五—八、一青森県、北海道—是川村、野辺地、函館、札幌、旭川、帯広、白老、室蘭 昭七、八、四—五宇都宮、長岡百穴、宇都宮城その他 昭七、八、二八—九、六陸前秋保温泉 昭七、九、一五—一九陸前青根、峨々、遠刈田温泉 昭七、九、二三—二七秋保温泉 昭七、一〇、一二—一一、一琉球、九州—神戸、大島、沖縄、那覇、首里、浦添、南山城、中城、名護、運天その他、鹿児島、宮崎、人吉、日奈久、太宰府、福岡、岡山、神戸、阿波 昭七、一一、三京都、奈良(正倉院) 昭七、一一、一八—三〇奥羽、北越—陸前鳴子、新庄、羽後横手、六郷、 四十二館、陸中盛岡、陸奥八戸、是川、青森、弘前、羽後秋田、羽前鶴岡、温海、越後高田 昭七、一二、六名古屋、京都 合計五百五十四回、外に括弧内のものは計五百六十二項あり。 [#二段組ここまで] (つづく)